ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Ben Fountain の “Billy Lynn's Long Halftime Walk” (3)

 きのう本書の「気になる点」について書こうと思ったのに、疲労困憊。頭がまわらず、「きょうの仕事はつらかった……あとは」というやつで、早々と晩酌をやってしまった。
 さて、おとといも書いたように、なにしろ政治音痴なので、本書の諷刺がイラク戦争アメリカ社会にかんして的を射たものなのかどうかはわからない。それゆえレビューでも、あちらの政治状況についてはいっさいふれなかった。
 けれども、本書にはイラク戦争にかぎらず、戦争一般を論じた記述も出てくる。主人公ビリーの戦争論を聞いてみよう。.... Army life in general and the war in particular have rendered him acutely sensitive to quantity. Not that it's rocket science. None of the higher mathematics is involved, for war is the pure and ultimate realm of dumb quantity. Who can manufacture the most death? It's not calculus, yo, what we're dealing with here is plain old idiot arithmetic, remedial metrics of rounds-per-minute, assets degraded, Excel spreadsheets of dead and wounded. By such measures, the United States military is the most beautiful fighting force in the history of the world. (p.221)
 このくだり以前にも、these ultimate matters of life and death (p.137) といったビリーの言葉が目につき、ぼくはこれらをレビューで次のようにまとめた。「本書の場合、戦争が『生と死の究極的な問題』であり、また『愚劣な死の大量生産』であるという認識が諷刺の根拠となっている」。
 こういう戦争論にたいし、ぼくは「一面の真理」を認めるものである。たまたま本書の前に読んだ Kevin Powers の "The Yellow Birds" もやはり、イラク戦争を扱った反戦小説だったが、そのレビューの落ち穂拾いでぼくはこう書いた。「今さらここでくだくだしく説明するまでもない背景で始まり、多くの映像でしばしば目にする機会のあった戦争であるだけに、政治的立場によって多少イメージの差はあるかもしれないが、たとえば不条理で悲惨な戦争というイメージを持っている人も多いと思う。ぼくもその一人だが、理由は簡単だ。イラク戦争にかぎらず、どの戦争も、いざ始まってしまえば、不条理で悲惨な現実が支配する生と死の限界状況にほかならないからである」。
 だが、ぼくはそのあと、「それだけが戦争の本質なのではない」とも述べている。が、それ以外の本質についてふれると、たいへん厄介な話になり、内容的に重複しているこのブログの記事、「"Moby-Dick" と『闇の力』」をぜひどうぞ、とお茶を濁してしまった。
 今回もお茶を濁したかったのだが、"Billy ...." を読んでいるうちに、この作品が戦争にかんして、どうしても避けて通れない問題をはらんでいることに気がついた。その「気になる点」についてまとめたのが、レビューの次のくだりである。「たとえば、悪の座視は悪であるとか、正義と正義の衝突が戦争であるといった側面はえがかれない。〈正義病〉にかかったアメリカ人の幼児性も諷刺の対象となっているが、幼児の軽薄を嗤うためには大人の知恵を有していなければならない。が、ものごとのあらゆる面をとらえるのが大人の知恵ではないのか。ある一面を戯画化して笑いのめすのが諷刺である点を考慮しても、本書の諷刺は一面的に過ぎる。戦争を真剣に諷刺するには、人間がついに天使たりえない不完全な存在であるという洞察が必要である。そうした悲劇的な人間観が欠けているがゆえに、本書に心から感動することはできない」。
 ……自己満足的で不得要領、文字どおりの拙文なので、もっと簡単に「気になる点」を明らかにしておこう。作者はどうやら、イラク戦争にかぎらず、すべての戦争が「愚劣な死の大量生産」でしかないと考えているようだが、ほんとうにそうなのか。
 たとえばファシストとの戦争はどうなのだろう。どこかの国のノーベル賞作家は、自分の政治信念に反する相手をファシストと呼ぶのがお好きらしい、と最近知ったのだが、この平和主義の作家も、ファシスト相手の闘いにだけはご熱心と見える。いや、反米、反核、反原発にもご熱心ですな。
 大昔、学生運動華やかなりし最後のころ、ぼくは「反戦平和」とか「反帝反スタ」(これ、なつかしいけれど通じないでしょうな。反帝国主義反スターリン主義という意味です)などと訴える学生運動家たちが、その一方でゲバ棒や鉄パイプをふるい、血を流している場面を何度も目撃したものだ。彼らの頭には、「反戦平和」と「○○殲滅」が同居していたのである。(○○には、ある過激派のセクトが入ります。○○○でもいい)。
 つまり、平和主義者たちも、個人的なレベルでは平気で戦争をしている。なぜか。自分の正義が大切だからだ。それならどうして「〈正義病〉にかかった」人間を嗤うことができるのだろう。それは要するに、自分とは異なる正義を信じる相手を嗤っているだけに過ぎないのではないか。
 結局、平和主義者たちも「悪の座視は悪」だと思っている。相手の正義は悪だと思っている。その悪が許せないのだ。それゆえ悪の撲滅のために戦っている。これを客観的にながめると、「正義と正義の衝突が戦争である」と言うしかない。日常生活でそんな戦争をおこなっている人間に、はたして国家の戦争を嗤う資格があるのだろうか。
 「悪の座視は悪」という問題にもどろう。去る4月、ぼくはルワンダ虐殺を扱った Naomi Benaron の "Running the Rift" を読んだとき、虐殺の実態をネットで調べて慄然とした。「被害者の総数については諸説あるものの、ルワンダ政府の推定によれば、当時の人口730万人のうち、『117万4000人が約100日間のジェノサイドで殺害されたという。これは、一日あたり1万人が、一時間あたり400人が、1分あたり7人が殺害されたに等しい数字である』」。
 このすさまじい虐殺を止めるためには、結局、戦争という手段しかなかった。「ルワンダにおけるジェノサイドが終息したのは、ツチ族ルワンダ愛国戦線がフツ族の政府軍や民兵などと激戦の末、ルワンダ全土を制圧したからだった」のである。この場合にもやはり、ビリーのように、'war is the pure and ultimate realm of dumb quantity' と言えるのだろうか。
 つまり、ベルジャーエフが『人間の運命』で述べているように、人殺しをやめさせるためにも人殺しが必要な場合がある。他人に罪を犯させないために、自分があえて罪を犯さねばならないこともあるのだ。むろん、それは罪であるがゆえに完全な解決策ではない。新たな血が流れるからだ。「ついに天使たりえない不完全な存在である」人間には、完全な答えなど見つかりようもない。
 こういう「悲劇的な人間観」に立脚したうえで、ああ、人間はなんてバカなことをする哀れな生き物なんだろう、と戦争を諷刺して笑いのめす反戦小説がぼくのゴヒイキです。でも、そんな理想のユーモア反戦小説なんて、不勉強で読んだためしがない。映画『博士の異常な愛情』には笑いころげたけれど、ぼくの求める深みまでは感じとれなかった。
 諷刺やユーモア形式にかぎらず、シリアスな戦争小説でも「悲劇的な人間観」にはめったにお目にかかれない。9月に読んだ○○系作家について、彼は「人間を簡単に善玉と悪玉に分けてしまうように、人間の行為を、歴史を、さらに言えば戦争をあっさり善悪で判断しているのではないか」と書いたばかりだ。その作品の土台には、「歴史の光と影を影一色に塗りこめ」る「暗黒の歴史観」があるとも書いた。
 そんな拙文を読んで、ああ、こいつは戦争を肯定し、侵略戦争を正当化する○翼だな、と思われた方もいることでしょう。……ありゃ、いつかの記事とまったく同じセリフになってしまったが、ともあれ、戦争について論じはじめると切りがない。こんなに長い日記を書いたのは初めてだが、これでもまだ足りない。あとはぜひ、「"Moby-Dick" と『闇の力』」http://d.hatena.ne.jp/sakihidemi/20081029 をお読みください。(しつこいようですが、伏せ字にした理由は、数少ないリピーターの方ならご存じの事情で、妙な○○操作を防ぐためです)。