ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Clark Blaise の “The Meagre Tarmac” (2)

 雑感にも書いたとおり、「このところオカタイ長編小説が続いたので、積ん読の山の中から組しやすそうなものを」という不純な動機で読みはじめた本書だが、なんのなんの、これは内容的にかなり深く、歯ごたえのある短編集だった。たまたま先週、「本は読みながら考えるもの」と書いた自分の言葉を改めて実感した次第である。
 当初こそ、終幕で主人公たちの「胸をよぎる…万感の思い」を行間から「じっくり読ませるような書き方」が「いかにも短編小説らしい味わい」だと、ごくフツーの感想しか覚えなかったのだが、何編か読み進むうちに気がついた。ここで描かれている「万感の思い」とは、単なる個人的な感傷にとどまらず、彼らインド系移民の生き方と大いにかかわっているのではないか。そこでやっと、大昔読んだT・S・エリオットの『文化の定義のための覚書』を思い出し、「ミクロの視点」と「マクロの視点」というこの短編集の大きな特色にたどり着くことができたわけである。
 インド人というと、その風貌どおりに何となく「濃い」イメージがぼくにはあるが、祖国を何年、何十年と離れていながら、これほどまでに濃い民族の血が彼らの体内に流れているとは知らなかった。むろん本書は小説だが、おそらく実際にも、心の中で「よかれあしかれ祖国に回帰せざるをえない」民族なのではないか、と想像される。少なくとも、そんな想像をかきたてられるだけの説得力が本書にはある。顔写真を見るかぎり、作者の Clark Blaise は白人らしいのだが、これはやっぱり、奥さんの Bharati Mukherjee という作家の内助の功もあって生まれた作品なのかしらん。
 ひるがえって、ぼくたち日本人の場合はどうか。はたして現代の日本人は「民族の生き方」を持ち合わせているのだろうか。エリオットの言う「文化」は日本には存在するのだろうか。この問いから思い出されるのは、蘄田恆存の名著『文化なき文化國家』である。
 じつを言うと、ぼくはこの "The Meagre Tarmac" を読んでいるあいだ、柄にもなく、「はたして現代の日本人は…」とボンヤリ考えることが多かった。その問いは当然、わが身にも返ってくる。毎日毎日、好きな小説を読んでは駄文を綴っているような生活が、はたしてまともな生き方と言えるのか。やれやれ、です。