きょうは前回に引き続き、Elena Ferrante の "The Story of the Lost Child" について駄文を書こうと思っていたが、朝目が覚めたとき、なぜか Viet Thanh Nguyen の "The Sympathizer" のことを思い出した。そういえば、あのヴェトナム戦争をめぐる小説にも恋愛の話が出てきたっけ。
と、そこでふと、一連の感想で大事な点を書き洩らしていたことに気がついた。あれは青春小説としても読める! あわてて同書のレビューを読み直し、なんとかその点を盛り込もうとしたが、どうもうまく行かない。
主人公の北ヴェトナムのスパイは、「サイゴン陥落後、旧南ヴェトナム軍大尉としてアメリカに亡命。政権奪還を目ざす将軍と旧軍人たちの動静を探る」うち、今やロスでクラブ歌手となった将軍の娘と再会する。
このエピソードはコミカルな場面として雑感で紹介したが、じつはあれ、青年将校の主人公がアメリカで経験した恋愛のひとつである。彼は戦前、アメリカの大学に留学したことがあり、おかげで敵国の文化に詳しい情報通のスパイとなるわけだが、その情報には色恋沙汰にかかわるものもふくまれる。
今朝思い出したのはこんなくだりだ。'Sitting down next to Lana [the general's daughter] and thinking of nothing, I merely followed my instincts and my first three principles in talking to a woman: do not ask permission; do not say hello; and do not let her speak first. .... I leaned close to be heard over the music and to offer a cigarette. Fourth principle: give a woman the chance to reject something else besides me.' (p.231)
なるほどね、とぼくはいたく感心したものだ。ぼくもあのとき、こうすればよかったんだ、と思ったが遅かりし由良之助。こんな古くさい表現をまだ使わなかったころはほんと、何も知らなかった。
そんな感懐はもちろん、知的昂奮というほどのものではない。が一方、"The Story of the Lost Child" では、わが身をふりかえって、そうそう、そうなんだよね、と思うことさえなかった。なぜだろうか。
(写真は、宇和島市龍華橋からながめた辰野川)