ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Elena Ferrante の “The Story of the Lost Child” (2)

 本書は(ぼくにとって)なぜつまらないのか。われながら、ずいぶんヘソ曲がりな疑問だと思う。なにしろ、あの Michiko Kakutani が my favorite books of 2015 に選んだ作品だ。ぼくの疑問は独りよがりのイチャモンにすぎない可能性が大きい。
 たとえば、「各人物の性格や関係、おもな過去のエピソードが旧知の事項として始まる」のはシリーズ作品なら当たり前。一見さんには頭に入りにくいラフな説明でも、最初から読んでいるファンにしてみれば、そうそう、そんなやつがいたなあ、そんな事件もあったっけ、と懐かしく思い出すことだろう。「数多くの人物が次々に登場するので憶えにくい」だって? そりゃきっと、おたくがボケてるからでしょうが。
 不満のひとつが Kakutani 女史の言う 'Dazzling ... stunning .... an extraordinay epic' という点にあるのも、イチャモンたるゆえんだろう。この評言は裏表紙にある引用で知っただけなので元の文脈は不明。が、あえて一人歩きさせて重箱の隅をつつくと、本書のようなメロドラマ、その根底をなす恋愛は、現代ではもはやテーマ的に epic とは相容れないのではなかろうか。
 それが epic として成り立つには、シーザーとクレオパトラのように劇主人公のスケールが大きくなければならない、とぼくは考えている。雑感でメロドラマの代表例に挙げた "Anna Karenina" や "The Red and the Black" にしても、上流階級の話であることもさることながら、何よりもまず、ヒーローやヒロインが精神的に高貴な人物である点を忘れてはなるまい。
 偉大な人間の没落が悲劇である、という趣旨のことを述べたのはニーチェであり、また George Steiner だが、この見方でむりやりメロドラマを、少なくともメロドラマの傑作を定義すると、「偉大な人間の恋愛がすぐれたメロドラマである」。
 ううむ、ちょっと無理がありすぎるかな。精密な論証が必要になりそうだ。と、ここで突然、Hemingway の "For Whom the Bell Tolls" の幕切れを思い出した。'Robert Jordan lay behind the tree, holding on to himself very carefully and delicately to keep his hands steady. He was waiting until the officer reached the sunlit place where the first trees of the pine forest joined the green slope of the meadow. He could feel his heart beating against the pine needle floor of the forest.' (Penguin Books, p.444)
 学生時代、ぼくも Robert Jordan 同様、心臓をドキドキさせながらこのくだりを読んだものだ。有名なシーンなので説明の必要はないだろう。今思えば、これは彼がニーチェや Steiner の言う意味で悲劇的ヒーローになった瞬間だった。それは同時に、"For Whom the Bell Tolls" が傑作メロドラマになった瞬間でもあったのではなかろうか。
(写真は宇和島市辰野川。ぼくは小学校6年のときに転校し、この橋を毎日わたって通学したものだ)