ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

2021年ぼくのベスト小説

 今年ももう大晦日。いつもぼんやり過ごしているうちに、いつのまにか年間ベスト小説を選ぶ日が来てしまった。
 家の大掃除がおわったところでEXCELの読書記録をながめると、昔の大作を片づける、という新年の目標は春ごろに早くも挫折。以後、ピューリツァー賞ブッカー賞の発表にあわせて新作近作を何冊かがんばって読んだものの、後者の発表後に失速。一年たってみれば、例年どおり、お寒い読書量だった。そのなかからベスト小説選出とは、われながら首をかしげてしまう。
 ともあれ、独断と偏見に満ちた採点の結果、☆☆☆☆以上を進呈した作品を読んだ順に挙げてみると、
1. Homage to Catalonia(1938 ☆☆☆☆★★)

2. To the Lighthouse(1927 ☆☆☆☆★)

3. Independent People(1935 ☆☆☆☆★)

4. The Amazing Adventures of Kavalier & Clay(2000 ☆☆☆☆)

5. The Corrections(2001 ☆☆☆☆)

6. The Kite Runner(2003 ☆☆☆☆)

7. The Black Book(1990 ☆☆☆☆★)

 あれま、なんと旧作ばかり。これではジージーの懐古趣味まる出しではないか。
 しかも、"Homage to Catalonia" にいたってはフィクションではない。当然これをカットするとして、残りの6作に絞ると前世紀のもののほうが優勢。そのままベスト3小説ということになるけれど、なんだか文学史年表から引いているみたいで面白くない。(『新潮世界文学辞典』巻末の年表は1989年までだが、もし1990年もふくめるなら "The Black Book" は間違いなく殿堂いりだろう)。
 そこで今世紀の3作に目を向けると、このなかで圧倒的に面白かったのは "The Amazing Adventures of Kavalier & Clay"。うん、これで今年のベストは決まりだ!
 一方、新作近作はどれもせいぜい☆☆☆★★★どまり。"The Amazing ..." に匹敵するほどパワフルな作品は皆無だった。しいていえば "The Deacon King Kong" だろうか。しかし刊行されたのは去年なので、今年の作品からベストを選ぶとすれば、おや驚いた、☆☆☆★★★を献上したのは "The Promise" だけだった。

 でもこれ、前にも書いたけど、じつは☆☆☆★★と☆☆☆★★★の中間くらい。ぼくの独断と偏見、懐古趣味という色メガネを外しても、なんだか年々、文学のチカラが衰えているような気がする。知的昂奮が得られるかどうか、という点からすれば、それはもう、いまにはじまった話ではないでしょう。
 ともあれ今年ももうおしまい。自己マンの拙文にときたまスターをつけてくださったかたがた、その都度お礼を申し上げねばと思いつつ、ズボラに放置してしまいました。ここでお詫びとともに感謝申し上げます。
 来年もとりあえず、もっぱら「これを読まずに死ねないで賞」の作品に取り組む予定だけど、デスク横の書棚を見やると、ぶ厚い本や、むずかしそうな本が鎮座。はて、何冊読めるやら。なにはともあれ、みなさま、どうぞよいお年を!

(下は、この記事を書きながら聴いていたCD)

 

Orhan Pamuk の “The Black Book”(1)

 数日前、やっと Orhan Pamuk の "The Black Book"(1990, 英訳2006)を読了。長い中断があり、読みおわってからも、すぐにはレビューを書く時間が取れなかった。はて、どんなレビューもどきになりますやら。

[☆☆☆☆★]「おれはおれでありたい。しかし、おれはだれだ」。こうしたアイデンティティの問題は、ひとつには、グレゴール・ザムザが毒虫に変身した朝からはじまった。本書の主人公、イスタンブールの弁護士ガーリップもある日突然、妻のリュヤーが家出し、いとこの新聞記者ジェラールも同時に失踪して以来、この現代文学でおなじみの問題に直面することとなる。ガーリップはふたりの居所の手がかりをつかむべく、ジェラールの残した膨大な量のコラムを読みかえすが、どのコラムも同工異曲。ガーリップの回想ともども、アイデンティティの変容と確立という主旋律の変奏曲がつぎつぎに奏でられる。ミステリ仕立てなのに物語性は度外視され、直線的な展開は皆無。いっこうに出口の見えない世界はカフカの作品同様、人間一般の実存の不安を指すものだが、むしろ都市と国家の特殊性の証左というべきかもしれない。新旧東西、異文化の交差する街イスタンブール。本書の劇中劇で描かれているとおり、第一次大戦後のオスマン帝国解体以来、混沌につぐ混沌に満ちた国トルコ。「アイデンティティを保持しなければ、都市も国家も民族も消滅する」。こうした彼の街、彼の国ならではの実存の不安こそ、じつは本書の真の主旋律ではあるまいか。オルハン・パムクは、まさしく栄冠にふさわしい国民作家なのである。

"The Black Book" 雑感

 きょうは "Fingersmith"(2002)の落ち穂ひろいをしようか、とも思ったのだけど、Sarah Waters はもうすぐ "Affinity"(1999)を読む予定。実際取りかかったときにでも思い出してみよう。
 その前にまず表題作を片づけないと。やっとまた読みはじめたのだけれど、中断前とおなじくカタツムリくん。なかなか先へ進まない。
 ゆうべはこんなくだりが目にとまった。In my daydream I had just dignified my haughty speech with the words As Voltaire says ... when suddenly I saw where I had landed myself in so doing. It suddenly seemed to me that the man I imagined as the thirty-fifth Ottoman sultan was not me but Voltaire ― not me but a Voltaire impersonator.(p.425)
 これは本書の主人公、イスタンブール在住の弁護士 Galip が見つけた "The Story of the Crown Prince" という物語の一節である。つまり劇中劇で、上の「私」は Galip ではなく Prince。その Prince の言葉を記録しているのが書記官で、書記官は Prince の考えをこうまとめている。Was it right for a sultan who ruled over the lives of millions to be walking around with another man's sentences wafting around in his head? .... If a man's head was a nightmarish swarm of other people's thoughts, was he a sultan or a shadow?(Ibid.)
 ぼくはこれを読んだ瞬間、思わず自分の来しかたを振り返らずにはいられなかった。この1年間にかぎっても、まず映画の話だが、いちばん印象にのこっているのは『晩春』をはじめ、何本か観なおした小津作品。どれも定評のあるものばかりで、その定評どおりに感動したにすぎない、という気もする。感動したのは not me but a film critic impersonator かもしれない。

 つぎに音楽。たまたま読んだ去年のギラー賞受賞作、"How to Pronounce Knife" に "Randy Travis" という短編が収められていたので、Randy のほか、Kenny Rogers, Garth Brooks なども聴いてみたけれど、ゲットしたCDはこれまた定番のものばかり。カントリーの奥深い世界をかいま見ただけで、そこへ自分の耳でわけいっていこうとは思わなかった。
 いちばん聴いたのはクラシックだが、作曲家のABC順に、Albeniz から Weber まで聴きながら買い足したCDはすべて、名盤のほまれ高いものばかり。名盤は退職前にじゅうぶん買い込んでおいたはずなのに、調べてみると、それまで頼りにしていた評論家のA先生やB先生の推薦盤以外にも名盤がたくさんある。新しく買ったものを聴き、ううむ、これもいいなあ、と思ったものだけど、よく考えると、そう聴いているのはいったいだれの耳? ここでも感動しているのは not me but a CD reviewer impersonator なのかも。
 とはいえ、兼好法師のいうとおり、「少しの事にも、先達はあらまほしき事なり」。退職後にハマったジャズにいたっては、当初はガイドブックがなければハマりようもなかった。いまでこそ、Miles Davis の "Sketches of Spain" は眠いよね、などと名盤にケチをつけることもあるけれど、そんな自分の好みができるのにも先人の耳は必要だった。
 最後に本の世界。いちおう、自分の頭で考え、自分なりに感想を述べているつもりではあるのだが、ああ、亡き某先生なら歯牙にもかけないだろうな、とか、べつのまた亡き某先生なら、こんなところがお気に召すだろうな、などと思ったりすることもある。ぼくにはやはり、先人の頭が不可欠だったのだ。
 というわけで、この "The Black Book" を読んでいると、よろず自分の目、耳、頭で判断することのむずかしさと、名ガイドのありがたさが同時に「そこはかとなく」感じられ、「あやしうこそものぐるほしけれ」。

Nadifa Mohamed の “The Fortune Men”(2)

 今月初め、本ブログを更新しようと思ったところで急用が入り、その後なにかとバタバタしてしまい、ほとんど読書から遠のいてしまった。師走とはよく言ったものですな、べつに師でもなんでもないけれど。
 それでも先ほど年賀状を出しおわり、やっと一段落ついたところ。途切れ途切れに読んでいた Orhan Pamuk の "The Black Book" を早く片づけないと。なんだか印象がぼやけてしまったが、密度という点では、かの "My Name Is Red"(☆☆☆☆★)をしのぐかもしれない。ストーリー性では明らかに落ちるものの、そんなものはハナから度外視した作品づくりになっていることもまた明らかだ。両書あわせて Pamuk 版 "The Red and the Black" ってことでしょうか。
 ともあれ書きかけた更新記事は、今年のブッカー賞最終候補作、Nadifa Mohamed の "The Fortune Men" の落ち穂ひろい。ブッカー賞発表から1ヵ月以上もたち、すっかり間のぬけた話題になってしまった。

 ぼく自身の記憶を鮮明にするため、レビューの前半を再アップしておこう。「神の裁きに間違いはありえないが、神ならぬ人間の裁判では、悲しいかな、時として誤審が起こる。まして1950年代のイギリスで黒人が被疑者となった場合には、冤罪の確率は相当あったのではないか。とそう推測したとたん、本書はテーマも結末も序盤で見える、見えた気がしてしまう。これは小説として大きなハンディである。このハンディを作者はいかに克服するか。物語にどんな肉づけをして、予想外の展開とテーマの深化を図るか。こうした観点から判断すると、本書はかなりがんばっているが、いささかもの足りない」。
 そこで思い出したのだけど、ぼくは本書を読んでいる途中ひそかに、ある結末を期待していた。ネタは明かせないが、大どんでん返しがあればいいな、と思ったのだ。
 ところが、フタをあけると「手堅い構成だが定石どおり」。ありていに言うと、序盤で見えたとおりの結末になってしまったのである。なぜか。
 未読のひとがいることを考えると、これまたネタは割れないのだけれど、ううむ、どうしようかな。本書で扱われている冤罪事件が実際にあったものであり、その事実を無視してまで面白い話にはできなかったから、というのが、差別テーマで「斬新な物語をつむぎだせなかった理由」です。てなところでギリギリ、セーフかな。
 もしこれが純粋なフィクションだったら、はちゃめちゃな物語に仕上げることも可能だったろうに、と思ったものでした。残念。

(下は、この記事を書きながら聴いていたCD。皆川達夫氏著、旧版『バロック名曲名盤100』ではレコード廃盤としるされていたが、最近CD化されていることを知りゲット。この季節、シュッツの「クリスマス・オラトリオ」は、バッハのものと並んで愛聴している)

 

Patrick Modiano の “The Black Notebook”(2)

 諸般の事情でしばらくデスクから離れていたが、最近になってやっと、ボチボチ Orhan Pamuk の "The Black Book"(原作1990, 英訳2006)を読んでいる。なかなか面白い。
 Pamuk は2006年にノーベル文学賞を受賞。その直後に本書の英訳版も刊行されたものと思われる。
 当時ぼくは受賞のニュースを知り、さっそく何冊か入手したものの積ん読。数年後、勤務先の大先輩のお宅を訪問したおり、辞めてから読んだ作家のひとりが Orhan Pamuk とうかがった。以来ずっと気になっていたが、実際に作品に接したのはぼく自身退職してから。今回で5冊目である。Pamuk を読むたびに亡き先輩の笑顔が浮かんでくる。
 本書を手に取ったのは表題作つながり。タイトルが似ているからだ。それにこのところ、寝床のなかでは、『黒革の手帖』ではないが清張ミステリを読みかえしている。黒つながり、といったほうが正確かもしれない。
 清張作品のほうは、中身はすっかり忘れてしまったけれど、たぶん純粋な娯楽ミステリだろう。"The Black Book" にもミステリの色彩があり、イスタンブール在住の弁護士 Galip の妻 Rüya が突然、別れの手紙をのこして失踪。その行方を追ううち、彼女の異母兄で有名な新聞コラムニスト Celal も姿を消してしまう。ふたりは同じ場所に潜んでいるのか、それとも Rüya は前夫のもとに?
 一方、Modiano の "The Black Notebook" は、3冊のなかではいちばんミステリ味が薄いようだ。それどころか、いままで読んだ Modiano 作品(本書で9冊目)のなかでもいちばん薄い。おかげでモディアノ中毒患者のぼくも、さすがに途中で飽きてしまった。それでも飽きないのが本物の中毒患者なのかも。
 ともあれ Modiano 節をいくつか拾ってみよう。The moment I walked past the large, dirty, white-and-beige building at II Rue d'Odessa .... I felt something click, the slight dizziness that seizes you whenever time splits open. I stood frozen, ....(p.3)Last night, I traced on the map, with my index finger, the route from Paris to Feuilleuse. I traveled back in time. The present no longer counted, ....(p.28)Today I'm no longer afraid of that notebook. It helps me to "scan my past," and that expression makes me smile. .... The past? No, it's not about the past, but about episodes in a timeless, idealized life, which I wrest page by page from my drab current existence to give it some light and shadow.(p.35)
 こうしたくだりにうっとりするうち、いつのまにかフィルム・ノワールの世界に引きこまれてしまう、というのがいつものパターンなのだけれど、今回は事件そのものが単純すぎて乗れなかった。サスペンス味に乏しく、なにより定番の戦争の影がないため深みに欠ける。事件の謎に「歴史の闇が重なっていない点が不満。モディアノの、モディアノによる、モディアノ中毒患者のための作品である」。
 とはいえ、これがもし現地ファンだったら、たとえば上の引用箇所に出てくる地名などを目にしたとたん、ああ、あそこか、と俄然興味が湧き、事件にもぐっと惹かれることだろう。そのへんが東洋の島国の読者にはツラいところですな。

(写真は2年前の夏、パリを旅行したときに撮影。どこかは忘れたが有名なカフェがあったはず)

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Laird Hunt の “Zorrie”(1)

 きのう、今年の全米図書賞最終候補作、Laird Hunt の "Zorrie" を読了。発表(ニューヨーク時間17日)直前の下馬評では1番人気の作品である。さっそくレビューを書いておこう。

Zorrie

Zorrie

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[☆☆☆★★] この世には、天下国家、政治や経済など大きな問題にはいっさいコメントせず、ただ黙々と自分の仕事に励んでいるひとがいる。いや、きっと多いのではないか。本書はそういうサイレント・マジョリティの一員である女性の生涯を、アメリカの原風景のなかで、アメリカ人の生きかたの原点として描いた佳作である。20世紀なかば、中西部の田舎町で一生を送ったゾリーは勤勉、誠実、純真そのもの。幼いころに両親を亡くし、厳格な伯母に育てられ、時には野宿生活も。工場勤務をへて農家に嫁ぎ、子宝には恵まれず、夫の死後農場経営に着手。折々の喜びと悲しみ、悩み、惑いが抑制された筆致で淡々と綴られていく。あざとい小説技法は皆無。人びとの善意と隣人愛を物語るハートウォーミングなエピソードや、「胸中の空洞」を映しだした心象風景などが織りあわされ、上の徳目をそなえたゾリーの人生が静かに浮かびあがる。それが古き佳き時代の物語であるところに、原点を思い出せ、という現代アメリカ人へのメッセージを読みとることもできよう。テーマ的にも、人種差別やLGBT、マイノリティの問題であふれる昨今のアメリカ文学にあって、久びさに出会った政治とは無関係の作品。干天の慈雨とはいわないまでも、一陣の涼風を感じさせる好篇である。

Sarah Waters の “Fingersmith”(1)

 きのう、2002年のブッカー賞およびオレンジ賞(現女性小説賞)最終候補作、Sarah Waters のご存じ "Fingersmith" をやっと読了。途中、諸般の事情で何日も中断したため、いつにもまして、まともなレビューが書けそうもない。さてどうなりますか。

[☆☆☆★★★] ギリシア神話アンドロメダをはじめ、「とらわれの姫」をテーマにした民話や童話などは数知れないが、本書は斬新なアイデアで従来のパターンを打ちやぶった秀作である。19世紀中葉、ロンドンの若いスリ師スーザンと、近郊の屋敷、茨の館に住む資産家の娘モードを中心に各人物の性格と心理が丹念に描かれ、しだいに財産詐取のクライム・ストーリーが進行する第一部のどんでん返しには、あっと驚いた。つづく第二・第三部で衝撃の真相が明かされ、当初単純に思えた犯罪が複雑な様相を呈するなか、ダマす娘とダマされる娘がふたりともダマされ、それぞれ異なる状況で「とらわれの姫」となる設定がユニーク。スーザンの監禁と脱出劇に凄みと迫力があり、モードのほうも緊迫した対決シーンでサスペンスが頂点に達するなど、後半ほど山場が連続。ふたりの娘が真に解放されるためには、彼女たちが事件の核心をすべて知らなければならない、という点でも類例は少ないだろう。人物描写やストーリー・テリングなど、ディケンズの影響があるのではと思って調べると、サラ・ウォーターズはかの文豪の大ファンとのこと。先達のような社会諷刺こそないものの、淫靡な世界や禁断の愛もかいま見せるあたり、まことにサービス精神旺盛。これはすぐれた文芸娯楽小説である。