きのうやっと Henry James の "The Portrait of a Lady"(1881)を読了。途中、諸般の事情でなんどか大休止してしまったが、それでも最後は一気に頂上まで駈け登った。さてどんなレビューもどきになりますやら。
[☆☆☆☆] 微視的な、あまりに微視的な画風である。ヘンリー・ジェイムズはよほど人間の心理に関心があったのだろう。まるで顔の毛穴のひとつひとつまで再現した超細密画のように、彼は貴婦人イザベルのみならず、どの人物も、その心の動きをすこぶる忠実に追いかけることで肖像画を仕上げていく。身分や立場、言動、顔の表情や声の調子、気質や性格など、内面外面を問わず、あらゆる個人情報を精査照合しながら一瞬一瞬の心理を顕微鏡で観察。まさに超絶技巧である。しかし不毛な芸術だ。イザベルのいう「道徳」は正邪善悪とはおよそ無縁のものであり、彼女が「自由」「個人の自立」を宣言するとき、それはただ「好き勝手に生きたい」と述べているにすぎない。そんなイザベルが不幸な目にあうのは、身から出たサビというしかない。一方、彼女と接する人びとはそもそも道徳を口にすることさえなく、結婚や財産、美術品などに興味を示す者はいても、人生いかに生きるべきかとおのれに問い、またイザベルに問いかける者はだれひとりいない。彼らとイザベルのかわす会話が、それぞれの根本的な価値観や存在基盤にかかわることも皆無。「彼女にはなにも意見がない」とは、本質的にどの人物にも当てはまる記述である。ここには当然、魂の激突がなく、感動的なドラマもない。おわってみれば長大なメロドラマにすぎず、しかもその長さの大半は「微視的な画風」に起因。なんという超絶技巧、なんという不毛な芸術だろう。