本書の巻末には「あとがき」や著者とのインタビュー記事が載っているので、それを読めば作品の成立事情や著者の創作意図などもわかるはずだが、ぼくはタテマエとして「原典主義」、本音を言えば面倒くさいので、そういう周辺知識はなるべく仕入れないようにしている。
それゆえいつものように独断的な駄文になるのを承知で書くと、雑感やそれをまとめた昨日のレビュー以外にふと思ったのは、尖閣諸島の問題で風雲急を告げる日中関係と、第二次大戦中における日系アメリカ人の強制収容のさなか、中国系の少年が日系の少女と恋仲になるという本書の設定が正反対(最近よく「真逆」という言葉を耳にするが、ぼくはどうしてもなじめない)に位置している、ということだ。
イデオロギーやナショナリズムは人間を遠ざけるが、隣人愛は人間を近づける。だから本書の主人公たちのように隣人愛の立場で臨めば日中関係も、などというアホなことを言うつもりはない。キリストはたしかに「なんじの隣人を愛せよ」と教えたが、あれは隣人を愛することが至難の業だからこそ。すでに愛しあっている者同士に「愛せよ」などと言うわけがない。
「人間は善を愛するあまりかえって偽善的になり、自分に隣人のあることを忘れたり隣人を苦しめたりする」とはベルジャーエフの言葉だが、「善」の代わりに「イデオロギーやナショナリズム」、「自分と同じ人種」などを当てはめれば、強制収容や尖閣諸島の問題の本質が見えてくるようにも思う。
「ひたすらケイコを思いやるヘンリーの真心には理屈ぬきに感動を覚える」と昨日のレビューに書いたが、その「真心」はキリストの説いた隣人愛に近いものがある。それが至難の業であるだけに、それは喩えようもなく美しい。至難の業ではあるが、少なくともそれを「美しい」と思う気持ちだけは忘れないようにしたい。…今日は柄にもなくマジメなことを書いてしまった。