ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Gary Shteyngart の “Super Sad True Love Story”(3)

 今日は「現代人は愛しうるか」というテーマを離れて本書をながめてみよう。ここで描かれている高度に発達した情報社会には慄然とするものがある。街路には、通行人の資産状況を瞬時に公開する探知機が設置され、会社へ行くと、社員の忠誠度や心理状態などを同じく瞬間的に査定する「勤務評定機」がある。おまけに人々はみんな、iPad の超ハイテク版のような通信装置を携帯。これにより、他人の資産状況や心理状態もふくめた個人情報をすかさず取得できる。日本語に直すのははばかられるが、女性の fuckability まで数字でパッとはじき出してくれるスグレモノだ。
 ぼくは機械音痴なので、将来的にこのような情報機器が開発可能なのかどうかはわからないが、それはさておき、これを読みながら「何やら薄気味わるいリアルさを覚え」ずにはいられなかった。現在、インターネットの普及によって、一昔前までは考えられなかったほど情報の取得が容易になり、それは昨今のアラブ情勢などからもわかるように、途上国や独裁国家の「民主化」に役立っているかのようだ。どこかの国々が情報のコントロールに躍起となっているのも一つの証拠だろう。だが、このネット社会にはバラ色の未来がひらけているのだろうか。
 機械音痴のことゆえ根拠のない直感にすぎないが、ぼくは機械というのは、とことん進歩せずにはいられないものだ、という気がしている。SF映画に出てくるような未来の車や飛行機はたぶん、誰かが何かをもとにして想像しているのだろうが、人間は昔から、物質文明的には想像したものを実現しつづけてきたのではなかったか。ならば情報機器にしても、上のように人間を管理・監視するタイプのものが開発されても決しておかしくないだろう。その先に待っているのは、まさしくオーウェルの『1984年』の世界である。
 本書はひょっとしたら、そういう徹底した情報管理による新型の全体主義国家、ディストーピアを描いた先駆的な作品かもしれない。その恐怖をもっともっと掘り下げて欲しかったというのが、ないものねだりの不満な点だが、作者のねらいはむしろ、「現代人は愛しうるか」をテーマにした悲喜劇のほうにある。それはそれでまた、相当にすぐれた作品となっていると思う。