今週は通院週間だった。"A Tale of Two Cities"(1859)は相変わらず匍匐前進。人物描写や会話などはわりと簡単なのだけど、とにかくやっぱり首をひねることが多い。
小休憩をなんどもはさみ、気分を一新して取り組んでみると、あ、そうかと気づいたりするけれど、それでもラチが明かない場合もあり、さいごはネット頼み。たとえば xxx, xxx, xxx dickens などと検索すると、いやあ便利な時代になったものですな、おおむね該当箇所が出てきて解説が載っている。例の WordReference com. のQ&Aも役に立つ。
それからありがたいごとに、去年読んだ "Bleak House"(1853)より登場人物が少ないので、えっとこれ、だれのセリフだっけ、とまごつかなくて済む。去年は、このひとだれだっけ、ということさえあったが、今回はほとんどない。大休止のあとでもメモを見ると記憶がよみがえってくる。
さて表題作。Susan Choi は才女である。ただ、2019年の全米図書賞受賞作 "Trust Exercise" は「才女才におぼれた凡作」だった(☆☆★★★)。「『虚実の混淆やゆらぎ』から、たとえば善悪の相対性のような道徳上の難問にまで発展することのないメタフィクションは隔靴掻痒、いくら技巧的にすぐれていても文学遊戯の域を出るものではない」。
それから六年。Susan Choi は明らかに長足の進歩をとげている。人物も情景も描写は緻密だし、物語の展開も時間的に複雑で、空間的には広範囲。いろいろなスキルアップが見てとれるが、それよりなにより "Flashlight" では文学遊戯がいっさいない。遊べない理由があったからだ、とぼくは推察する。上のようにメタフィクションも書ける「本来アイデア豊かな作者がリアリズムに徹したのは、拉致問題が作者にとってそれだけ切実な問題であることの証左ではなかろうか」。
さらに本書で特筆すべきは、「拉致問題といえば、小説としては政治に翻弄された家族の愛と絆がテーマのはずで、作者もその定石を踏みつつ、極力感傷を排し、また安直な政治的プロパガンダも避けている」ことだ。
これは意外にむずかしい。一般ピープルは感傷におぼれやすく、また気をつけていてもプロパガンダを鵜呑みにしやすい。前回ぼくは、『キューポラのある街』(1962)を撮ったときの「浦山桐郎監督にどんな現実認識があったのかは知らない」と書いたけれど、当時の日本ではどうやら、北朝鮮は宣伝どおり「地上の楽園」と信じるひとが多かったようだ。しかしちょっと考えれば、そもそも「地上の楽園」なんぞあるわけがない、と気づくのが常識であり、リアリズムだろう。拉致問題が長らく認識されなかったのも、情報不足のほかに、プロパガンダを真に受けたり、常識やリアリズムに欠けていたり、そこから生じる偏見があったりしたことも原因だったのではなかろうか。
その点、Susan Choi はあくまで現実を見すえている。太平洋戦争中および戦後の世相や在日朝鮮人の暮らしぶりもじつにリアル。とそう思えるのは、在日にしても日本人にしても、長所短所が丹念にきちんと書きこまれている。だから実在感があるのだ。プロパガンダや偏見は認められない。
ひるがえって、そのあたり、日本の映画監督や作家の作品には首をかしげたくなることがある。『キューポラ』はまだましなほうで、やはり在日を扱った『パッチギ!』となると、全体としてはとてもよく出来た青春映画だったけれど、歴史問題を語ったオダギリジョーのセリフには鼻白んだものだった。
ちょっと脱線気味だが、ついでにいうと、ぼくはふだんテレビでもなんでも政治の話題は敬遠。朝の情報番組でもその流れになると、朝ドラや「あさイチ」にパッと切り替える。時事問題を好んで採りあげるひととはつきあいたくない。政治は基本、人間を分断させるものだ。
ゆえに政治問題を扱って万人の心をつかむのは至難のわざ。Susan Choi は「極力感傷を排し、また安直な政治的プロパガンダも避け」、リアリズムに徹することでその難行に挑んでいる。Dostyevsky や Orwell の世界にはまだほど遠いが、現代作家としてはまさに最先端を走っているひとりではあるまいか。(了)
(朝ドラ『あんぱん』でも戦争の話では暗くなり、引いてしまった。いまは毎週、まだフトコロがあたたかい宮仕えの時代に買ったDVDで『ちりとてちん』を見ている。これはとにかく政治色がないのがいい)
