たいへん遅ればせながら、きょう『風立ちぬ』を観に行った。これも本書とおなじく大幅に予定がずれこんでしまった。
堀辰雄と堀越二郎をミックスさせた話と聞いたときから興味があり、一ヵ月前に友人に感想を聞いたところ、「よかったよ」という。その後、宮崎駿監督引退のニュース。それと関係があるのかないのか、観客動員数ランキング一位をずっとキープしている一方、喫煙シーンが多くて物議をかもしているとか、ほかにもいくつか批判を小耳にはさんだ。
……と、ぼくにしては珍しく "予備知識" を仕入れて映画館に足を運んだのだが、残念ながら、いささか期待はずれ。それとも期待が大きすぎたのかな。
〈堀辰雄編〉では、とりわけ紙飛行機を飛ばすシーンがよかった。ほかにもいくつか目頭の熱くなるシーンがあり、こちらのパートにはかなり満足。中学生のころだったが、原作のほか、短編『麦藁帽子』を読んだときの思い出がちょっぴりよみがえってきた。まあ、イメージどおりの堀辰雄像でしょうか。ということは、予想を超える内容ではなかったということでもあるけれど、それにしても菜穂子の出る場面はどれもいい。
ぼくが気になったのは〈堀越二郎編〉のほうだ。零戦の出番が少ない、などというのは不満のうちに入らないだろう。それより、え、宮崎駿って、こんなに単純な人間観、図式的な歴史観の持ち主だったの、と驚いた。
その理由をひとことで述べると、「人間は天使でも獣でもない」。このブログで再三再四、引用してきたパスカルの言葉だが、これとは対照的に、映画の主人公・二郎は人間を天使と獣に二分しているように思える。飛行機作りにひたむきな点には共感できるのだけれど、人間は機械ではありません。
……看板に偽りあり。ずいぶん前置きが長くなってしまった。Mendelson の "Almost English" の場合、作者の人間の描き方に違和感を覚えることはなかった。要するにそう言いたかったのだ。
娘のマリーナも母親ローラもとことんドジ、そしてとことん純情。戯画的とさえ言えるかもしれない描写の連続だが、それがなぜ存在感のある人物像を形成しているのだろうか。この点についてちょっと考えてみたい。