ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

"Klingsor's Last Summer" 雑感 (9)

 なるほど確かに、"Klein and Wagner" とは簡にして要を得た題名である。いい加減に読んでいたときはべつに何とも思わなかったが、二人の Wagner について詳しく分析してみると、これ以外にはちょっと考えられないタイトルだ。
 そこで遅まきながら気がついた。主人公 Klein は二人の Wagner を引き合いに出しながら、非常に内省的になっている。自分の心を深く静かに、時には激しい後悔の念をもって見つめている。その先にあるのは「悪」だ。
 よく「善良な市民」という言葉を耳にするが、あれはじつのところ、「目に見える形で犯罪を犯していない人々」くらいの意味ではないだろうか。少なくとも、百パーセントの善人ではないことだけは確かだ。「ジキル博士とハイド氏」とは言わないまでも、パスカルによれば「天使でも獣でもない」人間の心には、天使らしい要素と獣に近い要素が共存している。そんなこと、今さら指摘するまでもないことだ。
 それゆえ Klein ならずとも、自分の 'inner voice' (p.66) に耳を傾ければ、みずからの「獣に近い要素」が気にかかり、それを気にかけるのは「天使らしい要素」ということになる。自分の心に良き部分があれば悪しき部分が気になる、というのはひと安心かもしれないが、油断はできない。そこにはやはり悪しき部分があるからだ。
 などと「今さら指摘するまでもないこと」を書き連ねたのは、ほかでもない、例の安保法案騒動の際、そんな常識を忘れたのか、そもそも持ち合わせていないのか、「自分の正義しか頭になく、相手の正義を―少なくとも言葉の(時には本物の?)―暴力で否定しようとする〈善人〉たち」が多数、ぼくの目についたからである。その最たる例は、ウソかマコトか、「……に言いたい、お前は人間じゃない。たたっ斬ってやる!」と叫んだという某大学教授。
 彼は今ごろ、さすがにあれは言い過ぎたな、と「内省的になっている」のかもしれないが、ふだんから内心の声に耳を傾ける人間であれば、いくら心の中で憎き相手を「たたっ斬ってやる!」と思っていても、それを実際、口にすることはないだろう。それは悪しきことだ、という自制心が働くのではないか。
 ところが、正義というのはじつに魔物であって、自分が絶対的に正しいと思うと内心の声にはいっさい耳を貸さず、相手にもまたあるはずの良き部分がひとつも目に入らなくなる。そこで、「たたっ斬ってやる!」となるわけだ。
 しかも、上の彼らには、「平和を守るためなら、何をしても何を言ってもよい」という強い〈正義感〉がある。要するに、「平和を守るための戦いは許される」と信じているのだ。明らかに言葉の矛盾だと思うが、「平和のための戦争」、それなら市民レベルだけでなく、米ソ中をはじめ国家単位で、あるいは宗教単位や民族・人種規模で昔から人間が行なってきたことだろう。例の戦後70年談話発表の前、某TV番組で脳科学者の中野信子氏が「人間は戦争をする生き物だ」と発言したとおりである。
 T・S・エリオットによれば、「文化というものは単に幾種かの活動の総計ではなくしてひとつの生き方である」(深瀬基寛訳『文化の定義のための覚書』)。この定義に従うと、「昔から人間が行なってきた」戦争もまた人間の「ひとつの生き方」であり、要するに「文化」なのである。上の騒動では、「不倫は文化だが、戦争は文化ではない」と叫んだ俳優もいたそうだが、彼の言う「文化」とは一体どんな意味なのだろう。
 ……ああ、ぼくもつい内心の声を忘れ、作品分析そっちのけでエラソーなことをいっぱい書いてしまった。「雑感」だから、ま、勘弁してください。
(写真は愛媛県宇和島市駅前通り。南国情緒あふれる市内風景のひとつである)。