ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Charlotte Mendelson の “Almost English” (3)

 母親のローラは義理の母たちと同居し、娘のマリーナはドーセットにある全寮制のパブリック・スクールに転校。それなのに二人の心理状態は「パラレルで、一方がパニックにおちいったときは相手もまたしかり、という展開」である。
 この構成や、ほかにも作者の巧妙な話術が「存在感のある人物像を形成している」ことは間違いないが、ここにはそれよりもっと本質的な問題を読み取ることができる、とぼくは思う。
 母も娘もそれぞれ、ひたすら純情だ。その上さらに、ひたすら愛情豊かだ。これが最大のポイントである。
 むろん、マリーナのほうは高校生だけあって反抗心もある。が、それも愛情の裏返しであることは明らかで、彼女はしきりに母親のことを思いやり、心の底から愛情を求め、また示している。ローラについては言わずもがな。こういう人物を好ましく思わない人は誰もいない。
 一方、脇目もふらず、ただひたすら相手を愛する彼女たちは、ほかのことがなかなか目に入らない。それが「ドジで不器用」な性格につながっている。具体例はレビューに挙げたとおりだが、「電柱にぶつかったり、ディナーの席で皿をひっくり返したり」という日常茶飯の出来事でも、その光景を目のあたりにして思わず笑わない人は誰もいない。それもバカにしてではなく、なんとなく親しみを覚えながら笑うはずだ。
 二人にしっかりとした存在感があるのは、読者の心の中にこういう好感や親近感を自然に呼びさますように描かれているからである。
 ぼくは雑感で、本書が「文学性を重んじるブッカー賞にふさわしい作品かどうかは……いや、それはたぶん『文学』のとらえ方次第でしょうな」と書いた。上述した点に絞ると、「文学的な深みは望むべくもない」本書でも、じつは文学性は相当にあると言ってよい。なんだか矛盾した言い方のようだけれど、深くはないが当たり前の真実を衝いている、と言えばわかりやすいだろうか。(「文学的な深み」の定義については時間がないのでカット)。
 一方、きのう観た映画『風立ちぬ』の場合、〈堀辰雄編〉にかんしては上とほぼ同じようなことが言える。が、〈堀越二郎編〉では、主人公・二郎は飛行機作りにひたむきなだけでなく、もっと大きな歴史の流れにも目を向けている。
 そのぶん作品に「深み」が増しているかというと、決してそんなことはない。むしろ底の浅いものになっている、というのがぼくの感想だ。「人間を天使と獣に二分」するという「単純な人間観、図式的な歴史観」が透けて見えるからである。この点について詳しく述べると、ぼくの言う「文学的な深み」にもつながることになります。
 "Almost English" に話をもどすと、マリーナもローラも「大きな歴史の流れ」なんぞにはいっさい目もくれず、「ひたすら純情」、「ひたすら愛情豊か」、そしてとにかく「ドジで不器用」だ。人間の基本ですな。