ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Andre Alexis の “Fifteen Dogs” (3)

 Penguin 版の "Animal Farm" を書棚の奥から取り出したついでに、冒頭の一節を拾い読みしてみた。すると、"Fifteen Dogs" との違いにすぐ気がついた。
 第2パラグラフはこうなっている。'As soon as the light in the bedroom [Mr & Mrs Jones'] went out there was a stirring and a fluttering all through the farm buildings. Word had gone round the day that old Major, the prize Middle White boar, had had a strange dream on the previous night and wished to communicate it to the other animals. It had been agreed that they should all meet in the big barn as soon as Mr Jones was safely out of the way. Old Major .... was so highly regarded on the farm that everyone was quite ready to lose an hour's sleep in order to hear what he had to say.' (p.5) つまり動物たちは、まるで当然のことのようにコミュニケーションの手段として言語を有しているのである。
 なぜか? なんていう疑問は、これを読んだ当時、ちっとも思い浮かばなかった。人間の言葉を話し、人間のようにものを考える動物の世界に、「まるで当然のことのように」引き込まれてしまったのだ。
 よくよく考えればフシギな話である。それなのに、まったく不自然さがない。'Word had gone round ....' といったあたり、サラっと書き流しているようで、じつはさにあらず。このさりげない描写があってこそ、ぐんぐん「引き込まれてしま」うのだ。まさしく達意の文章である。
 一方、"Fifteen Dogs" の犬たちは、アポロ神から人間の知性を授けられる。神様だからそんなことも出来るのだろう、ということで、こちらもべつに無理な設定ではない。が、これは明らかに、動物が人間の言葉を話すことにかんする理由づけである。まずその点が "Animal Farm" と異なっている。Andre Alexis の着眼点でもあるような気がする。むろん、彼が "Animal Farm" を読んでいるものとしての推測だが、まさかあの名作を読んでいないわけはないでしょう。
(写真は宇和島港の灯台小林旭浅丘ルリ子主演映画『南海の狼火』(1960) に、これとほぼ同じ風景が出てきた)。