ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

2016年ブッカー賞エピローグ

 おとといの夜、The Mookse and the Grimes のディスカッションを斜め読みしていたら、どうも怪しい。Paul Beatty の話題がしきりに出てくるのだ。ぼくの勘違いだったのか。すでに消去されているので確認はできないが、発表以前に情報が漏れていた可能性はある。
 ともあれ、ロンドン時間25日午後9時半(日本時間26日午前5時半)からBBC放送でセレモニーが中継される、という情報をキャッチ。早起きしようと思ったが寝坊。7時前に起きてディスカッションを見ると、案の定、Beatty 受賞のニュース。まじかよ、と思った。
 あとで検索すると、このときすでにガーディアン紙には速報が載っていたようだ。が、ぼくはその後、勤務先でニューヨーク・タイムズ紙の記事を読み、ほんとうに Beatty が取ったんだと確認した次第である。
 ともあれ、ぼくの予想は大外れ。作品の出来ではなく、「去年の3月刊行の作品が今年のブッカー賞に選ばれることにはいささか抵抗がある」という理由で、穴馬にさえ選んでいなかった。
 出来そのものから見ると、"The Sellout" は、フィクションを通じて人生の苦い真実を描いているという意味で、たしかに文学性は高い。この点、 "Do Not Say We Have Nothing”と並んで双璧だったかもしれない。ただ、後者が伝統的な技法に則っているのにたいし、"The Sellout" のほうは「荒唐無稽な筋立て」で野心的な作品とも言える。受賞理由はチェックしていないが、この点が高く評価されたのかもしれない。
 一方、ぼくが(もっぱら自分の好みで)本命・対抗に選んでいた "Hot Milk" と "All That Man Is" は、上記の意味における文学性ではたしかに見劣りがする。そう考えると、今年の結果はまず順当と言えるかもしれない。
 とはいえ、アメリカで1年以上も前に出版された作品がイギリスでは新刊、それゆえブッカー賞候補作の資格を得てそのまま受賞、というケースは今後も大いに考えられる。旧大英帝国の作家にとってハードルが高くなったことは間違いない。
 それが英文学の質的向上につながることを期待して、という理由で選考基準が変更されたのならいいが、グローバル化の流れに抗しがたく、というのなら、文学の伝統文化としての側面はどうなってしまうのだろう。T. S. Eliot さん、この事態をどう思いますか、と尋ねてみたいところだ。
(写真は、宇和島市保手橋からながめた古城山。現在は私有地だが、地元の人の話によると、橋の向こうに見える迷路入口跡から自由に登れるらしい。ぼくもヘビの出ない季節に登ってみようと思っている)