ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Colson Whitehead の “The Underground Railroad” (3)

 本書における現実描写でぼくがいちばん疑問に思うのは、人間の描き方である。簡単に言うと、ここには善玉と悪玉しかいない。善人でも悪人でもない、善人であると同時に悪人でもある、そういう人間がまったく存在しないのだ。
 具体的には、まず奴隷の中に善人がいる。それから性悪女や乱暴者などがいる。次に、白人の中に横暴な農園主や、欲得ずくの賞金かせぎがいる。それから、奴隷の逃亡を手助けする善良な白人がいる。この4パターンなのだ。これをまとめると、黒人であれ白人であれ、とにかく「人間を単純に善玉と悪玉に分ける」図式的な人間観が浮かび上がってくる。
 この見方により本書では、虐殺をはじめ残虐非道な行為を行なうのはほとんどすべて、残酷な白人である。が、現実はどうか。反乱を起こした奴隷は一人の白人も殺さなかったのか。そもそも肌の色を問わず、一見善良そうな人間が残忍なふるまいにおよぶ、ということはないのだろうか。
 こうした問題を端的に提出しているのが Melville の中編 "Benito Cereno" である。ぼくは長らく読み返したことがないが、いま思うに、あの奴隷船は、奴隷制の縮図というか象徴というか、とにかく奴隷制を通じて人間の本質を白日のもとにさらす媒体だったような気がする。
 さらに Melville は "Mardi" の中で、過酷な奴隷制の実態を目のあたりにした人物にたいし、Babbalanja という哲学者にこう語らせている。「感情という点では吾が胸の熱き事、君のそれに劣るものではない。けれども、君はこれら奴隷の為に一戦交える積りなのかもしれぬが、私は御免蒙りたい。災厄は現在一部に残して置く方が、将来全てに及ぶよりも増しなのだ。(中略)義なる者が悪を懲らしめる事は、時として、義ならざる者が悪を助ける事以上に難きもの。人類はこの極悪非道の真理を前に慟哭している。これを改める賢策を知る者は誰一人としておらぬ」。(拙訳)
 上の「図式的な人間観」が描いているものは、悪人による善人の虐殺である。ところが、この虐殺を止めるためには、反乱や戦争、つまり善人による悪人の虐殺という手段しかないかもしれない。Melville の "Beneto Cereno" や "Mardi" を読むと、そういう恐ろしい現実が見えてくる。そこまで徹底して考えることが「知的に誠実であること」だとぼくは思う。
 話が大きくなりすぎた。とにかく、「人間を単純に善玉と悪玉に分けるのではなく、知的に誠実であること。このメルヴィルの原点に立ち返ってこそ、(奴隷制という)もはや語り尽くされた感のあるテーマでも真に新しい物語を作れるのではないか、と愚考する次第である」。
(写真は、宇和島市三島神社の鎮守の森(再アップ))