ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Sarah Bernstein の “Study for Obedience”(5)

 あっ、今年はモツレクを聴かなかった!
 そう気づいたのは数日前のこと。モーツァルトの絶筆「レクイエム」は凄絶なだけにBGMむきではないけれど、それでも例年、命日の12月5日前後には架蔵盤をぜんぶ聴いていた。しかしいまも流しているのは昔なつかし Eagles

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 軽快なテンポが功を奏してか、この記事を書きはじめるまで読んでいた Paul Murray の "The Bee Sting"(2023)もけっこういいペースで進んだ。とはいえ、まだやっと終盤の入り口。旧作 "Skippy Dies"(2010 ☆☆☆☆)のように後半、芸術的にみごとに化けるかも、と期待したのだけど、ううん、どうかなあ、概要が見えたところで大休止してしまった。やっぱり☆☆☆★★か。
 閑話休題。重い話になりそうなのであまり気が進まないが、そろそろ表題作ともオサラバしないといけない。
 今回もまずタイトルについて。これは明らかに obedience が善行であることを前提としたものだ。ほんとにそうかな? to what しだいで、obedience は悪事にもなるのではないか。
 この疑問は、前回も引用したつぎのくだりで解消された。Every single one of us on this ruined earth exhibited a perfect obedience to our local forces of gravity, daily choosing the path of least resistance, which while entirely and understandably human was at the same time the most barbaric, the most abominable course of action.(p.157)
 gravity すなわち tradition や culture, history に忠実であることは、すこぶる人間的であると同時に野蛮な行為でもある。gravity をナショナリズムの比喩とみなせば、こうした obedience の二律背反性は自明の理といえよう。
 では、なぜそれは一面、entirely and understandably human なのか。残念ながら、その答えは本書のどこにもしるされていない。そこでロレンス先生にご出馬を願おう。「人間の自我の深層部においては、何人といえども集団的たることを免れえない」。「この世に純粋な個人というものはなく、また何人といえども純粋に個人たりえない」。(『現代人は愛しうるか』)
 とても格調高い言説で、「何人といえども集団的たることを免れえない」というのはピンとこないかもしれないが、ぼくなりに注釈を加えると、「生まれる自由をもたぬ人間は、生まれた瞬間から両親や家族、民族ないし国家という全体に帰属している」。だからこそ、obedience to our local forces of gravity は entirely and understandably human なのである。
 一方、そこには当然、集団的自我と個人的自我との緊張関係もある。人間はただ単に全体に帰属しているだけでなく、その全体とどうつきあうか、と考える存在でもあるからだ。ここで福田恆存先生のご出馬。「一つの共同体には、それに固有の一つの『生きかた』」があり、また一人の個人には、それを受けつぎながら、しかもそれと対立する『生きかた』がある。逆にいへば、共同体の『生きかた』を拒否しながら、それと合一する『生きかた』があるのです」。(『私の幸福論』)
 この引用で、かえってややこしくなったかもしれないけれど、要するに、「人間はただ単に全体に帰属しているだけでなく、その全体とどうつきあうか、と考える存在でもある」。それゆえ、「人間には自由がなく、好むと好まざるとにかかわらず、人間は全体への帰属を意識したときにのみ自由たりうる」。
(ここで入浴と晩酌。以下、酔った勢いで)
 こうしてみると、この "Study for Obeidence" は、obedience to our local forces of gravity が the most barbaric, the most abominable course of action であるという点ではよく書けている。しかしそれはウクライナ問題を見れば明らかなとおり、本書を読まなくてもみんな知っていることだ。
 ところが、その obedience が entirely and understandably human でもあるという側面については、上のとおりまったく言及されていない。そこでぼくはこう結論づけたわけです。「集団的自我と個人的自我の緊張関係や、自由と全体への帰属意識といった肝腎の問題はついに深掘りされることがない。傑作になりそこねた佳篇である」。