"We" を読みながら、そして読んだあとも考えたのだが、全体主義には二種類あるかもしれない。ひとつはフランス革命あたりを起源とするもので、ある観念(理念、理想)に端を発し、その観念が社会や国家全体で実現されることを目指す全体主義である。
たとえば "We" の冒頭には、the integration of the infinite equation of the universe(p.3), mathematical infallible happiness(ibid.), the mathematically perfect life of One State(p.4)といった文言が出てくる。こうした観念は目に見えないものだが、それが One State というかたちで可視化されると、これに反旗をひるがえす者は処刑、粛清、虐殺される。
一方、目に見える事件や現象が起こってはじめて発生する全体主義もあるようだ。新型コロナウイルスのニュースを聞いたり、身近で感染者や感染による死者が出たり、その数が急速に増大したりするうちに、マスクを大量に買って転売したり、不必要なトイレットペーパー、食料などを買いだめしたりする。ざるが傾いたとたん、なかの小豆がざっと流れ出すような行動パターン、つまり集団ヒステリーである。べつに罰則はないが、風評被害や村八分にあったりする。
観念型の全体主義は、強烈な個性をもつ個人の頭のなかで生まれる。「神は死んだ」と宣言するためにはまず、絶対者たる神と対決するだけの強い自我がなければならない。そして「人々がキリスト教に失望しはじめるや否や、ユートピアは一挙にして人心を掴み、そこに根を下ろそうとした」とE・M・シオランが言うように、ニヒリズムからユートピア願望から生まれ、同じくシオランによれば、この願望から人は「異常や畸形や不正規に対して敵意を抱き、均質性や標準型や複製や正統性の確立をめざす」。つまり、"We" で描かれているようなディストピアの構築である。その出発点に強い個人がいることを考えると、「全体主義は個人主義の帰結である」という福田恆存の指摘はじつに鋭い。
ひるがえって、集団ヒステリー型の全体主義社会における個人はどうか。キリスト教の掟のような厳しい戒律によって鍛えられたことのない、いかにも脆弱な存在、ざるのなかの小豆に過ぎないのではないか。ふたたび福田を引用しよう。「日本中が、挙(こぞ)つて集団思考のわなに陥つてゐるではないか。(中略)恐ろしいのは、今日だけしか、そしてある集団にだけしか通じない思考法が、詰り自分の頭では何も考へなくても済む思考法が、やがて日本中を支配してしまふだらうといふ事だ。いや、もうさうなつてゐるのではないか」。そんな状況でテレビをつけると、「ひとりひとりの行動が問われています」という訴えが、なんともそらぞらしく聞こえてならないのである。(この項つづく)
(写真は、石川県ヤセの断崖の突端から眺めた風景。2月に撮影。『ゼロの焦点』の終幕に出てくる荒海もかくや、と思われる)