きのう鶴岡八幡宮へ、2番目の孫ユマちゃんの初宮参り。10年ほど前に倒れた有名な大銀杏の隣りに植えられた若木の葉がみごとに色づいていた。
このところ寝床のなかで読んでいる『キラキラ共和国』にもあるとおり、「週末の鎌倉では身動きが取れない」のがふつうだが、おそらくコロナの影響だろう、いつもほどの混雑ぶりではなかった。同書によれば、「世界遺産になどならなくてよかったと、鎌倉の住民は心密かにそう思っている」そうだが、現在の本音はどうなんだろう。
閑話休題。"Trust Exercise" は最近の記憶では、ほかにちょっと思いつかないくらい退屈な本だった。『キラキラ共和国』のほうがはるかに面白い、というか、心にしみるくだりが多い。
それでもなにしろ、去年の全米図書賞受賞作。ガマンして付き合った。こんな自己マンのブログを書いていなければ、レビューもどきをでっち上げる目標がなければ、途中できっと遠慮なく投げ出していたことだろう。
読んでいて、思わずムッとした箇所もある。But the truth or falsehood of Sarah's story, the purity or taint of her motives for being truthful or false ― these aren't ours to determine or speculate on. We apologize for the digression.(p.165)
ここらへんの話法はすこぶる複雑で、この we とは Sarah の友人 Karen をふくむ集団のはずなのだけど、ほかにだれがいるかは不明。ぼくにはそんな工夫をほどこす意図がピンとこなかった。なにより digression を読まされたのが腹立たしかったが、Susan Choi としては、そんな読者もいることを計算して We apologize と Karen に言わしめたのかもしれない。しかしその記述を創作したのは Choi 自身である。ほら、よく考えながら読んでね、とでも言いたいのか韜晦なのか、とにかく意味不明の digression である。それとも、じつは digression ではなく、なにか深い内容が秘められているのだろうか。
ともあれ、巻頭の PRAISE FOR TRUST EXERCISE を斜め読みすると、なんともはや絶賛の嵐! そりゃたしかに全米図書賞受賞作なのだけど、そこまで提灯記事を書いていい作品なのか、とへそ曲がりのぼくは疑ってしまう。
察するに、本書が高く評価されるのはその技巧面かもしれない。第一部は Sarah's story で、その別ヴァージョンが第二部の Karen's story。それが上のように変則的な話法で叙述される点からしても、本書は明らかにメタフィクションといえる。メタフィクションとは、レビューでも引用したように、有名な文芸評論家 Patricia Waugh によれば、writing which self-consciously and systematically draws attention to its status as an artefact in order to pose questions about the relationship between fiction and reality である。
しかしながら、メタフィクションとは to pose questions about fiction and reality through the relationship between fiction and reality を目的としなければ意味がない、とぼくは思っている。さらにいえば、真偽不明、虚実混淆の世界にわけいることによって現実の虚構性、虚構の現実性をあばき出す。
このとき、扱う現実が政治や宗教、社会にかかわっているほどわかりやすく、かつ恐ろしい。時事ネタを例にとれば、新型コロナの発生源はA国であるとB国はいい、B国はA国であるという。そこにどんな「現実の虚構性、虚構の現実性」が潜んでいるか、それを追求することによって恐ろしい現実が見えてくる。いや、すでに見えているのでこの例は面白くないけれど、要するに政治や社会の矛盾を矛盾のままに描くには、メタフィクションは最適の方法のひとつではなかろうか。
むろん、恋愛や性の問題を扱うことで人間性の矛盾をえぐり出した作家もいる。D. H. Lawrence や Graham Greene などだが、彼らの作品は通常のフィクションである。一方、"Trust Exercise" の場合、メタフィクションの技法こそ駆使しているものの、Sarah's story にしろ Karen's story にしろ、その真偽のほどはどうだっていい、としか思えない。その恋愛やセックスのエピソードから、人間という恐ろしい魔物の正体が浮かびあがってくるわけでは決してないからだ。
Susan Choi は才気あふれる文体からして、とても聡明な女性なのだろうと思うけど、上の引用例からも暗に読み取れるように、どうやらメタフィクションをもてあそんでいるようなフシがある。つまり、本書は「いくら技巧的にすぐれていても文学遊戯の域を出るものではない。才女才におぼれた凡作である」。こんな文学的趣味の持ち主の才女とは、ぼくは面とむかうとタジタジとなりそう。話もまったくかみ合わないでしょうな。