ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Patrick Modiano の “The Occupation Trilogy”

 今年もブッカー賞の季節がやってきた。ロングリストの発表が迫り(ロンドン時間今月26日)、現地ファンのあいだでは例年どおり、いろいろな予想が飛びかっている。ぼくもじつは1ヵ月前くらいから下馬評をチラ見しているのだが、いまのところまだ、大本命といえそうな作品の話は出ていないようだ。
 それでも1冊だけ注文したのが Audrey Magee の "The Colony"。今年の George Orwell Prize の最終候補作である。
 ほんとうはもっと買いたいところだが、なにしろ年金生活者なので、1冊3000円もするようなハードカバーはふところにひびく。"The Colony" の入選を祈るばかりだ。
 同書が届くまでに読みおえれば、とボチボチ取り組んでいるのが、ポルトガルノーベル賞作家 José Saramago の "Blindness"(1995, 英訳1997)。いま調べて驚いたのだが、Saramago は物故していた(1922 – 2010)。本書を買ったときは存命だったのに。
 ともあれ、この "Blindness"、とても面白い。赤信号で停車中のドライバーが突然視力をうしない、彼と接触した人びともつぎつぎに失明。といっても、目に映るのは暗黒ではなく白一色の milky world とあって、彼らは伝染性が疑われる white sickness の患者と見なされる。
 この奇病への政府の対応が某国のゼロ・コロナ政策を思わせ、また隔離された患者や濃厚接触者たちの混乱ぶりも、あのロックダウンされた街そっくり。コロナ渦がはじまった当初、『ペスト』(英訳では未読)の売れ行きがアップしたそうだが、この "Blindness" もコロナの時代の必読書かもしれない。邦訳の売れ行きはどうなんだろう。
 閑話休題。 "The Occupation Trilogy" が Modiano 初期の代表作だと知りつつ、いままでずっと手をつけなかったのは、Modiano にしてはぶ厚い本だから。そこで手持ちの薄いものから片づけてきたのだが、最近在庫切れ。ようやく本書の番になった。

 本国フランス版があるのかどうかは知らないが、これは2015年刊行。このときはじめて英訳されたデビュー作 "La Place de l'Étoile"(1968)と、既英訳のあった第2作 "The Night Watch"(原作1969)および第3作 "Ring Roads"(1972)を合冊したものである。だからぶ厚くなったわけだ。邦訳版があるかどうかは未チェック。
 レビューを書いたときは、便宜上、1冊ずつ単独の作品として評価したのだが、ここで3部作全体を簡単にふり返っておこう。
 まず "La Place de l'Étoile"(☆☆☆☆)。

 これには驚いた。文体・内容ともに、ぼくがいままで読んできた Modiano とは明らかにちがう。ノスタルジックでメランコリックな(とぼくの理解している)モディアノ節は影をひそめ、「現実とフィクションの融合により現実のゆがみを誇張し」たシュールな世界にふさわしい表現スタイルだ。たとえば、第二次大戦後生まれの青年 Raphael Schlemilovitch に、なぜか Sigmund Freud がこう話しかける。.... you are suffering from delusions, hallucinations, fantasies, nothing more, a slight touch of paranoia ....(p.116)
  このくだりを参考に、ぼくはこの第1作を「『錯乱、幻覚、夢想』に満ちた驚くべき狂騒劇」とまとめた。3部作のなかでいちばん衝撃的な作品である。
 つぎに、第2作 "The Night Watch"(☆☆☆★★★)。

 ぼくの知っている Modiano らしい文体と内容に近づいてきた。フランスのゲシュタポレジスタンス組織の二重スパイ Stavisky が、その地下活動ゆえに懊悩。My shady dealings and the unsavoury characters I rub shoulders with would cost me my innocence.(p.174)Will I be able to live with the guilt?(p.199)
 主な人物が説明ぬきに登場する「開巻直後の狂騒劇のようなパーティ」に面食らうが、最後、「スタヴィスキーが自分の裏切った面々を思い出すシーンはたまらなく切ない」。物語的には、3部作のなかでいちばん面白いかも。
 そして第3作 "Ring Roads"(☆☆☆★★★)。

 いつもの、というか、その後の Modiano 作品とほぼ変わらない印象を受けた。ユダヤ系の青年 Serge がパリ市内をめぐり歩く。Farther on, the deserted arcades of the Palais-Royal. People had played here, once. But no more. I walked through the gardens. A zone of silence and mellow half-light where the memories of dead years and broken promises tug at the heart.(p.271)いかにも Modiano らしいですな。
 以上、3作を平均すると☆☆☆★★★なのだが、3部作全体の総合評価としては☆☆☆☆。文学は数学ではない。3作ともそれぞれ長所短所があり、とくに美点、それから刊行当時(1968~1972)の歴史的意義を考えると、やはり秀作である。
 その意義とは、当時、大戦再検証の機運が高まりつつあったなか、「戦後生まれの弱冠22歳の青年作家」がドイツによるフランス占領時代をふり返り、「悲痛な問いを発した」ことにある。「ユダヤ人は昔から、自由と民主主義の本家本元であるフランスでも迫害されてきた。ナチス・ドイツによる占領時代には、モディアノ自身の父のように、なんとユダヤ系住民のなかにさえ対独協力者がいた。フランス人はあのとき、ほんとうに単なる被害者だったのか」。
 ぼくはモディアノ節を上のように「ノスタルジックでメランコリック」と評したけれど、その背景にモディアノ自身の父の戦争体験があったことを考えると、たんに「センチメンタル」と斬り捨てるわけにはいかない。
 いままでぼくはモディアノ中毒にかかりつつ、なぜこの作家はこれほどまでに過去にこだわるのか、なぜアイデンティティの問題にこだわるのか、と疑問に思ってきたが、本書を読んで納得した。平凡な結論だが、この "The Occupation Trilogy" に Modiano の原点があったのである。

Dino Buzzati の “The Tartar Steppe”(1)

 イタリアの作家 Dino Buzzati(1906 – 1972)の "The Tartar Steppe"(1940, 英訳1952)を読了。ヴァレリオ・ズルリーニ監督の遺作『タタール人の砂漠』(1976)の原作である。さっそくレビューを書いておこう。

[☆☆☆☆] ひとは大なり小なり、「内なる砂漠」を心に秘めて生きている。目標や希望、願望がいつも達せられるとはかぎらず、喜びも幸わせも永遠につづくわけではない。不本意な予定や路線の変更は日常茶飯。忍耐をしいられ、不満がつのり、苦渋をなめ、最悪の場合は絶望の淵に沈む。とかくこの世はままならぬ。こうした人生の不毛、無意味、不条理は現代文学ではおなじみのテーマだが、この「内なる砂漠」を外なる砂漠との対峙から描きだしたのが本書である。青年将校ジョヴァンニ・ドローゴが辺境の砦に配属。北の砂漠を越えてタタール人が襲来し、みずから英雄となる日を期待するものの、戦争はいっこうに起こらない。兆しはある。はるか彼方で動く黒い点は目の錯覚か、それとも前進する軍団か。まさに映画的で絵になる光景であり、テーマを忘れてひたすら顛末が知りたくなる。幻想と夢のような世界でサスペンスが高まり、人びとの願望と打算が渦まき、非情な現実も浮かびあがる。ドローゴは当初、早期転属を希望するものの、結果的に三十年以上も砦に残留。そのかんの人生は文字どおり「内なる砂漠」。外なる心象風景とのコントラストが鮮やかな不条理文学の傑作である。

Chinua Achebe の “Things Fall Apart”(1)

 Chinua Achebe の "Things Fall Apart"(1958)を読了。恥ずかしながら、いままで未読だった。陳腐なレビューしか書けそうにないが、さて。

Things Fall Apart

Things Fall Apart

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[☆☆☆☆★] 文化とは、そして宗教とは、ある民族や国民に特有の生きかたである。エリオットのこの説にしたがえば、まず内部的には、共同体の「生きかた」と、個人の「生きかた」との対立葛藤という問題がある。どんな「生きかた」にも長所と短所があり、また古い伝統は子孫にとってかならずしも合理的ではない。それゆえ、各個人が共同体固有の短所や非合理といかにつきあうかという問題から、さまざまな悲喜劇が生まれる。これが本書の前半である。ふしぎな呪術、厳しい戒律、にぎやかな儀式や祭礼。とりわけ、イボ族の勇者オコンクォが養子や幼い娘をめぐり、内なる愛情と外なる掟に引き裂かれながら起こす行動がドラマティックで、息づまるような展開だ。それが後半、村にキリスト教宣教師が出現してからは「文明の衝突」篇。上のエリオットに戻ると、文化と宗教が「民族や国民に特有の生きかた」である以上、当然外部的には千差万別、さまざまな相違がある。ゆえに本来、それを優劣の観点から見るべきではないのだが、絶対神を仰ぐ一神教キリスト教は異教の信仰を禁じ、なかんずく土着の宗教を迷信誤謬として排斥してきた。絶対を信じるものほど強いものはない。そこでイボ族の文化も宗教も妥協をしいられ、共同体の「絆が崩れゆく」破目になる。その崩壊過程がまた劇的で、波乱に富んでいる。西欧流の「上から目線」を皮肉り、文化と宗教の本質を鋭く衝いた名作である。

Knut Hamsun の “Hunger”(1)

 きのう本書 "Hunger"(1890, 英訳1996)の中間報告をアップしたら、そのあと、なんだか憑きものが落ちたようにどんどん進み、一気に読了。Knut Hamsun(1859 – 1952)は1920年ノーベル文学賞を受賞したノルウェーの作家である。はて、どんなレビューになりますやら。

[☆☆☆☆] 実存主義文学あるいは不条理文学というと、一般にはカフカが先駆者のひとりと目されているが、本書はそのカフカのさらに先駆けとなった作品ではなかろうか。なるほど、ここではまだ世界の根源的な不条理は語られていない。飢えを癒やすべくオスロ市内を放浪する主人公の貧乏青年がおちいった悲惨な状況は、なかば彼自身がもたらしたものだ。誇りゆえに他人のほどこしを求めず、良心ゆえに悪に走らず、騎士道精神ゆえに、自分よりさらに貧しい人びとを思いやる。いわば自縄自縛、青年はみずから課した行動規範を墨守するあまり、ますます飢えに苦しみ、また一方、生活の糧を得ようといそしむ執筆活動はほとんど実を結ばず、彼は精神的にも肉体的にもしだいに追いつめられていく。つまり、飢えとそれにともなう苦境は青年にとって克服しがたい壁、ヤスパースのいう限界状況として立ちはだかっている。激しい感情の起伏、さまざまな衝動、妄想と錯乱、死への不安、絶望、徒労感。青年が現代ふうにいえば実存の不安にかられ、不条理を意識していることは疑う余地がない。時に発する神への呪詛もひとつの証左である。青年がグレゴール・ザムザやKと異なるのは、後者のおかれた不条理な状況が彼らの意思とは無関係に存在するのにたいし、青年のほうは「なかば彼自身がもたらしたものだ」。がしかし、人間の資質もまた意思とは無関係であることを思えば、青年はザムザやKの一歩前を歩んでいるのである。

Patrick Modiano の “Invisible Ink” (2)

 ノルウェーノーベル賞作家 Knut Hamsun(1859 – 1952)の "Hunger"(1890, 英訳1996)をボチボチ読んでいる。薄い本なのだけど、いっこうに進まない。
 英語そのものはごく標準的で読みやすい。取りかかったとたん、これなら楽勝と思ったくらい。だけど、その後サッパリ。理由は簡単、数ページめくっただけで、すぐに飽きてしまうからだ。
 けれども、これは名作の誉れ高く、『新潮世界文学辞典』によると、刊行当時「全ヨーロッパにセンセーションを起こし、文学思潮をほとんど変化させた」とのこと。この記述、どこがどう変わったかについては明らかにしていないが、たしかに正鵠を射ているような気もする。
 19世紀のヨーロッパ文学というと、ぼくは英訳版では Stendhal や Balzac、Dostoyevsky や Tolstoy など仏露のものしか接したことがないのだが、この "Hunger" は、そうした一連の作品とは明らかに毛色が異なっている。対等に近い複数の主要人物の絡みあいから生まれる物語性が希薄だからだ。
 上の辞典は本書を「ドストエフスキー的な作品」と紹介しているが、それはどうかな。なるほど主人公は、ラスコーリニコフのような貧乏青年なのだけど、ここにはソーニャがいない。若い娘も登場するが、ラスコーリニコフにたいするソーニャのような重みがない。つまり対等の関係ではない。
 さらに大きなドストエフスキーとの違いは、本書の主人公がラスコーリニコフのように「神に憑かれて」(George Steiner)いないことである。青年はときおり神への呪詛こそ発するものの、いまのところ、そこには哲学がない。
 いかん、なんだか脱線しそうなので元に戻ると、本書が19世紀末当時のヨーロッパの「文学思潮をほとんど変化させた」というのが正しい指摘に思えるのは、ひょっとしたらこれ、カフカの先駆的作品かも、という気がするからだ。かの "The Metamorphosis" が1915年、"Crime and Punishment" は1866年、そしてそのほぼ中間にこの "Hunger" が出版されたという時系列は、なかなか興味ぶかい。それなのに、読んでいて「すぐに飽きてしまう」のはなぜか。
 長くなりそうなので閑話休題。表題作は、英訳版(2020)としては Modiano の最新作のようだ。(原作では "Chevreuse"(2021)のほうが新しい)。

 これは一読、「もっとヤクを!」と思ったものだ。ぼくは軽度のモディアノ中毒患者なので、たいした禁断症状ではなかったけど、それでも、もっともっと強烈なモディアノ節に酔いしれたかった。
 設定は旧作と似たり寄ったりで、初老の男 Jean Eben が青年時代を回想。ある探偵社で数ヵ月だけ働いていたころ、Noël Lefebre という失踪した女性の行方を追ったことがあり、老いたいま、なぜかそれが気にかかってきた。There are blanks in a life, but also sometimes what they call a refrain. For periods of varying length, you don't hear this refrain, as if you've forgotten it. And then one day, it comes back to you unbidden, when you're alone and they are no distractions. It comes back, like the words of a children's song that still has a hold on you.(p.49)
 このくだりを読んだとたんパッと思い出したのが、中島みゆきの名曲「りばいばる」。「忘れられない歌を 突然聞く 誰も知る人のない 遠い町の角で やっと恨みも嘘も うすれた頃 忘れられない歌が もう一度はやる」。

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 中島みゆきとモディアノの比較研究なんて面白そうなテーマだが、まじめなフランス文学者が聞いたら吹きだすでしょうな。ともあれ、タイトルの invisible ink が本文で出てくる箇所もモディアノ節である。Trying to bring my research up to date, I get a strange feeling. It's as if all this was already written in invisible ink. .... Perhaps, at the turn of a page, what was set down in invisible ink will gradually emerge, and the questions I've been asking myself for so long about Noël Lefebre's disappearance, as well as the reason I've been asking myself those questions will be resolved with the precision and clarity of a police report. .... explanations will be provided in minutest detail, the mysteries cleared up. And perhaps this will allow me, once and for all, to better understand myself.(p.105)
 ほかにも、Present and past blend together in a kind of transparency, and every instant I lived in my youth appears to me in an eternal present, set apart from everything.(p.123)など、いかにもモディアノらしく、しばし禁断症状もおさまるのだけれど、invisible ink の ink がにじみすぎて、肝腎の絵柄、the mysteries がいつにもましてハッキリしてこない。それゆえ「『もっとヤクを!』と叫びたくなるのである」。

Veza Canetti の “The Tortoises”(2)と、再読したいナチス関連作品一覧

 今回からやっと先月の落ち穂拾い。表題作を手にしたきっかけはウロおぼえだが、たぶん、「ウクライナの非ナチ化」という例のプロパガンダ。「非ナチ化?なにそれ?」と思ったものだけど、そんな時代錯誤のような cause でさえ戦争の cause になるのだから恐ろしい。
 などと考えているうちに、久しぶりにナチスものを読んでみたくなった。そこで積ん読の山を見わたすと、本書(New Directions Paperbook 版)の表紙にハーケンクロイツの写真があったのを思い出した。

 作者は Veza Canetti。うかつなことに、レビューをでっち上げる寸前まで、Elias Canetti の妻とは気づかなかった。Elias なら "Auto-da-fé"(1935)だけなぜか所蔵している(もちろん未読)。調べると Elias はブルガリア生まれで、1913年にウィーンに移住。そこでオーストリア人の Veza と出会い1934年に結婚。どちらもユダヤ系ということで1939年に夫婦そろってイギリスに亡命。1963年に Veza が死去。そのあと Elias は再婚し、1981年にイギリス人としてノーベル賞を受賞。以上がふたりの略歴だ。
 この "The Tortoises" にも Dr. Kain という著名な作家が登場する。たぶんモデルは Elias だろう。ともあれ舞台は1938年、ナチス・ドイツによるオーストリア併合直後のウィーン。ユダヤ系の Kain とその妻 Eva はイギリスへ逃れようとしているが、ヴィザがなかなか取得できず、不安な毎日を過ごしている。アルプス越えも頭にちらつくあたり、『サウンド・オブ・ミュージック』を思わせるが、こちらは映画ほど明るくないし劇的でもない。子どもが登場しないし、甘いロマンスもないからだろう。
 タイトルの由来は、当時のウィーンでは甲羅にハーケンクロイツの焼き印を押された亀が土産物として売られていたという話による。べつに調べたわけではないが、いかにも実際にあったようなほかのエピソードにまじって、これだけ純粋なフィクションとは考えにくい。この一件もふくめて、おそらく「作者は小説形式を採用することで、実際に見聞したできごとをつとめて冷静に記述しようとしたのではあるまいか」。
 それゆえ地味な仕上がりで、だからこそ一般には埋もれた作品に近いのだろう。けれども、「夫妻および隣人のユダヤヒルデと、ディナーに招いたナチス高官とのやりとりなど、いかにもリアル。恐怖と接しながら日常生活を送る息苦しさが、ちいさな事件の数々からひしひしと伝わってくる。やがてヒルデの父親は逮捕され、カインの兄も獄死」。どのエピソードもいまでこそ、さもありなん、と思えるものばかりだが、それでも上の時代におけるナチスの実態をいち早く告発した本書の歴史的意義を忘れてはなるまい。
 そこでついでに、本書のあと、ほかにどんなナチスものが刊行されたのかふり返っておこう。当然のことながら、あまりに多すぎるので、独断と偏見で絞ってみると、まずおカタイところで、『夜と霧』、『全体主義の起源』、『青髯の城にて』あたりは必読書。しかし『全体主義~』は邦訳でさえ中途挫折してしまった。せめて "In Bluebeard's Castle"(1971 ☆☆☆☆★★)だけでも、死ぬまでには英語で再読したいものです。

 つぎに、純文学の既読リストやレビューを「ナチス」「ホロコースト」「アウシュヴィッツ」というキーワードで検索したところ、予想どおりたくさんヒット。そのなかで、もういちど読みたいと思ったのは、刊行順につぎの6冊。(5は以前、ほかの作品といっしょに紹介したので、今回単独でレビューを再アップしました)。


1. "Enemies: A Love Story"(1966 ☆☆☆☆)

2. "Sophie's Choice"(1971 ☆☆☆☆★)

3. "The Reader"(1995 ☆☆☆☆)

4. "Dora Bruder"(1997 ☆☆☆☆)

5. "Suite Française"(2004)

Suite française

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[☆☆☆☆★★] 読んでいるうちに思わず絶句してしまった。第二次大戦初期、陥落寸前のパリから脱出する人びとの混乱ぶりは、映画『カサブランカ』に出てくる実写フィルムで知っていたが、あの映像の裏側にかくも凄絶な人間ドラマがあったとは…。むろんフィクションなのだが、ここには実際に阿鼻叫喚の修羅場を経験した者でなければ想像もつかぬような迫真性がある。オートバイに乗ったドイツ兵が、ちいさな村に現れる場面などが一例だ。しかし同時に、この凄まじい迫力は、著者が実体験を通じて人間性の本質を鋭く洞察した結果生みだされたものでもある。死と隣りあわせの極限状況に立たされた人間がさらけ出す醜いエゴ。知性や良心は結局、生存本能の前にもろく消えさってしまうものなのか…。そんな悲痛な叫びが聞こえてくる。第二部は占領下の村が舞台で、小説としてのふくらみがさらに増している。その熟成はやはり、偏見や固定観念を排した著者の人間観察のたまものだ。残忍なはずのドイツ兵が示す思いやり、村人たちとの交流、芽ばえる微妙な恋心。その一方、平時と変わらぬフランス人同士の利害感情や階級意識、家庭内の対立。なかんずく、度しがたいエゴイズム。「人間が複雑な存在であることは自明の理だが、これを理解するには戦争のような重大事件が必要」という文中の言葉はじつに重い。アウシュヴィッツにおける著者の死で未完におわった本書だが、完成していれば不朽の名作になっていたことは想像にかたくない。いや未完のままでも、じゅうぶんに傑作である。用紙節約のため極細の字で書かれた原稿の復元写真を見ると、鬼気迫るような作家魂を感じる。と同時に、この遺作を平和ぼけした国で読み、書評を書くことの意味について考えざるをえない。


6. "HHhH” Laurent Binet(2010 ☆☆☆☆★)

 さらにオマケすれば、つぎの4冊か。
7. "Crabwalk"(2002 ☆☆☆★★★)

8. "Those Who Save Us"(2004 ☆☆☆★★★)

9 "Sarah's Key"(2006 ☆☆☆★★)

10. "The Visible World"(2007 ☆☆☆★★)

 最後に、エンタテインメントから3冊。
11. "The Guns of Navarone"(1957 ☆☆☆☆★★)

12. "The Eagle Has Landed"(1975 ☆☆☆☆★)

13. "Eye of the Needle (Storm Island)"(1978 ☆☆☆☆)

  以上14冊、ナチズムと「非ナチ化」を考えるうえで、読むと参考になるかもしれない私的再読希望リストでした。

Patrick Modiano の “So You Don't Get Lost in the Neighborhood”(2)

 "Young Once"(1981)がとてもよかったので(☆☆☆★★★)、つづけてまた Modiano が読みたくなった。いわゆる〈モディアノ中毒〉の症状である。ぼくは重症ではないけど、軽く患っている。
 そこで手に取ったのが表題作(2014)。これもよかった(☆☆☆★★)。Modiano がノーベル賞を受賞した年の刊行だが、たぶん偶然の一致だろう。

 いま調べると邦訳があり、『あなたがこの辺りで迷わないように』。このタイトルと同じ文言が本文にも出てくる。英訳では、Annie had not merely written the address on the sheet of paper folded in four, but the words: SO YOU DON'T GET LOST IN THE NEIGHBOURHOOD, in her large handwriting, an old-fashioned handwriting that was no longer taught at the school in Saint-Leu-la-Forêt.(pp.143-144)
 主人公の老作家 Jean Daragane が少年時代を回想したくだりである。当時、Jean 少年は Saint-Leu-la-Forêt の学校に通っていて、その送り迎えをしてくれたのが Annie。Annie は母親でもなんでもなく、それなのにどうして Jean の世話をするようになったのかは、読んでのお楽しみ。ちなみに、Saint-Leu-la-Forêt(サン・ルー・ラ・フォレ)はパリ市内の凱旋門にほど近い界隈のようだ。(下は、3年前の夏にシャンゼリゼ通りの横断歩道から撮影)

 ともあれ、Jean はアドレス帳を紛失し、その拾い主の男と面会。すると男は、ある昔の殺人事件について調査中だという。事件のファイルを入手した Jean は、そこに記載されたパリの各所を訪ね歩く。やがて Annie のことなど40年前の記憶が少しずつよみがえってくる。
 事件そのものは例によって最後まで「闇につつまれ、いわくありげな人たちでさえ記憶の引き金になるだけ。通常なら不満に思うところ」だが、なにしろモディアノ節に酔いしれてしまい気にならない。上の引用箇所の直前にも、こんなくだりがある。The streets were on a slope and, as he walked further down, he felt certain that he was going backwards in time.(p.143)
 モディアノ中毒の症状のひとつは、そういえば自分にもあんな体験が、と文脈を離れて思い出すことだろう。おぼろな記憶だが、ぼくも子どものころ、夜になるとなぜか母に連れられ、知らないひとの家や港へ出かけたことがあった。昼間だけ伯母の家に預けられ、またべつの伯母の見送りに駅へ行くと両親がいた。そこで話しかけようとしたら、なぜか手で追いはらわれた。「子どもにとって、おとなはふしぎな存在である。なにをしているのか、なにを考えているのか、ほんとうのところはよくわからない」。
 ラスト・センテンスはこう締めくくられている。.... you need a little more time to realise that there is no-one left in the house apart from you.(p.155)ここだけ切り取って読むと、べつにどうってこともないようだが、これに Annie と Jean のふれあいを重ねると胸を深くえぐられる。Jean の「両親がいつのまにかいなくなり、それまで顔見知りにすぎなかった女のひとが、なぜか一緒に新しい家で暮らしている。ひとりで近所を探索しても迷子にならないように、住所をしるしたメモを持たせてくれた。夜の雑踏のなか、離ればなれにならないように、しっかり手を握りしめてくれた。あのひとはいま、どこにいるのだろう」。