ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Patrick Modiano の “The Occupation Trilogy”

 今年もブッカー賞の季節がやってきた。ロングリストの発表が迫り(ロンドン時間今月26日)、現地ファンのあいだでは例年どおり、いろいろな予想が飛びかっている。ぼくもじつは1ヵ月前くらいから下馬評をチラ見しているのだが、いまのところまだ、大本命といえそうな作品の話は出ていないようだ。
 それでも1冊だけ注文したのが Audrey Magee の "The Colony"。今年の George Orwell Prize の最終候補作である。
 ほんとうはもっと買いたいところだが、なにしろ年金生活者なので、1冊3000円もするようなハードカバーはふところにひびく。"The Colony" の入選を祈るばかりだ。
 同書が届くまでに読みおえれば、とボチボチ取り組んでいるのが、ポルトガルノーベル賞作家 José Saramago の "Blindness"(1995, 英訳1997)。いま調べて驚いたのだが、Saramago は物故していた(1922 – 2010)。本書を買ったときは存命だったのに。
 ともあれ、この "Blindness"、とても面白い。赤信号で停車中のドライバーが突然視力をうしない、彼と接触した人びともつぎつぎに失明。といっても、目に映るのは暗黒ではなく白一色の milky world とあって、彼らは伝染性が疑われる white sickness の患者と見なされる。
 この奇病への政府の対応が某国のゼロ・コロナ政策を思わせ、また隔離された患者や濃厚接触者たちの混乱ぶりも、あのロックダウンされた街そっくり。コロナ渦がはじまった当初、『ペスト』(英訳では未読)の売れ行きがアップしたそうだが、この "Blindness" もコロナの時代の必読書かもしれない。邦訳の売れ行きはどうなんだろう。
 閑話休題。 "The Occupation Trilogy" が Modiano 初期の代表作だと知りつつ、いままでずっと手をつけなかったのは、Modiano にしてはぶ厚い本だから。そこで手持ちの薄いものから片づけてきたのだが、最近在庫切れ。ようやく本書の番になった。

 本国フランス版があるのかどうかは知らないが、これは2015年刊行。このときはじめて英訳されたデビュー作 "La Place de l'Étoile"(1968)と、既英訳のあった第2作 "The Night Watch"(原作1969)および第3作 "Ring Roads"(1972)を合冊したものである。だからぶ厚くなったわけだ。邦訳版があるかどうかは未チェック。
 レビューを書いたときは、便宜上、1冊ずつ単独の作品として評価したのだが、ここで3部作全体を簡単にふり返っておこう。
 まず "La Place de l'Étoile"(☆☆☆☆)。

 これには驚いた。文体・内容ともに、ぼくがいままで読んできた Modiano とは明らかにちがう。ノスタルジックでメランコリックな(とぼくの理解している)モディアノ節は影をひそめ、「現実とフィクションの融合により現実のゆがみを誇張し」たシュールな世界にふさわしい表現スタイルだ。たとえば、第二次大戦後生まれの青年 Raphael Schlemilovitch に、なぜか Sigmund Freud がこう話しかける。.... you are suffering from delusions, hallucinations, fantasies, nothing more, a slight touch of paranoia ....(p.116)
  このくだりを参考に、ぼくはこの第1作を「『錯乱、幻覚、夢想』に満ちた驚くべき狂騒劇」とまとめた。3部作のなかでいちばん衝撃的な作品である。
 つぎに、第2作 "The Night Watch"(☆☆☆★★★)。

 ぼくの知っている Modiano らしい文体と内容に近づいてきた。フランスのゲシュタポレジスタンス組織の二重スパイ Stavisky が、その地下活動ゆえに懊悩。My shady dealings and the unsavoury characters I rub shoulders with would cost me my innocence.(p.174)Will I be able to live with the guilt?(p.199)
 主な人物が説明ぬきに登場する「開巻直後の狂騒劇のようなパーティ」に面食らうが、最後、「スタヴィスキーが自分の裏切った面々を思い出すシーンはたまらなく切ない」。物語的には、3部作のなかでいちばん面白いかも。
 そして第3作 "Ring Roads"(☆☆☆★★★)。

 いつもの、というか、その後の Modiano 作品とほぼ変わらない印象を受けた。ユダヤ系の青年 Serge がパリ市内をめぐり歩く。Farther on, the deserted arcades of the Palais-Royal. People had played here, once. But no more. I walked through the gardens. A zone of silence and mellow half-light where the memories of dead years and broken promises tug at the heart.(p.271)いかにも Modiano らしいですな。
 以上、3作を平均すると☆☆☆★★★なのだが、3部作全体の総合評価としては☆☆☆☆。文学は数学ではない。3作ともそれぞれ長所短所があり、とくに美点、それから刊行当時(1968~1972)の歴史的意義を考えると、やはり秀作である。
 その意義とは、当時、大戦再検証の機運が高まりつつあったなか、「戦後生まれの弱冠22歳の青年作家」がドイツによるフランス占領時代をふり返り、「悲痛な問いを発した」ことにある。「ユダヤ人は昔から、自由と民主主義の本家本元であるフランスでも迫害されてきた。ナチス・ドイツによる占領時代には、モディアノ自身の父のように、なんとユダヤ系住民のなかにさえ対独協力者がいた。フランス人はあのとき、ほんとうに単なる被害者だったのか」。
 ぼくはモディアノ節を上のように「ノスタルジックでメランコリック」と評したけれど、その背景にモディアノ自身の父の戦争体験があったことを考えると、たんに「センチメンタル」と斬り捨てるわけにはいかない。
 いままでぼくはモディアノ中毒にかかりつつ、なぜこの作家はこれほどまでに過去にこだわるのか、なぜアイデンティティの問題にこだわるのか、と疑問に思ってきたが、本書を読んで納得した。平凡な結論だが、この "The Occupation Trilogy" に Modiano の原点があったのである。