ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Jane Austen の “Pride and Prejudice”(1)

 先週またもや風邪をひいたせいか、いっとき落ちついていた血圧がふたたび急上昇。文字どおり頭をかかえながら "Pride and Prejudice"(1813)を読んでいた。
 それがおととい、あと数ページまで漕ぎつけたところで挫折。右耳が飛行機の離発着時のように詰まり、夜半には激痛が走り、少し出血もあった。
 この季節、風邪がなかなか治らないまま脳梗塞を起こした亡父のことが思い出され、いよいよ年貢の納めどきかと案じたが、きのう診てもらったところ、さいわいコロナでもインフルでもなく、ふつうの風邪とのこと。安堵し、帰りのバスのなかで本書を読みおえた。はて、どんなレビューもどきになりますやら。

Pride and Prejudice (Penguin Classics)

[☆☆☆☆★★] モームが「世界の十大小説」に挙げたことでも知られる名作だが、正確には、「小さな大小説」である。まず小たるゆえんは、ここに描かれているのが終始一貫、家庭というコップのなかの嵐だからだ。しかもその嵐は結婚狂騒曲。たしかに結婚は現代でも人生の重大事のひとつであり、まして十九世紀初頭、イギリスの上流階級ともなれば、結婚が個人と家庭に占める比重は相当に大きかったものと思われる。しかしその事実を差し引いても、やはりコップのなかの嵐には相違ない。それがなぜ「大小説」と呼べるのか。プライドと偏見という人間の宿痾をもののみごとにドラマ化した作品だからである。聡明で思慮ぶかいエリザベスでさえいっとき患ったように、この業病とまったく無縁のひとはだれもいない。それどころか、現代の国際社会をもプライドと偏見が席巻している現実を見れば、嵐はとうにコップの外でも吹き荒れている。一方、ちょうどシェイクスピア悲劇が性格悲劇であったように、本書は一面、性格喜劇である。エリザベスの母や妹たち、その取り巻きがしめす軽佻浮薄、軽挙妄動ぶりは、およそ人間が人間であるがゆえに逃れえぬ欠点から生じた可笑しさそのものであり、当時の読者はおそらく、身につまされながら苦笑爆笑したのではないか。エリザベスに一回めのプロポーズをしたときのダーシー、および彼の叔母キャサリン夫人のプライドと偏見は、これもおそらく当時の上流社会の一般常識を反映したものであり、彼らはいわば守旧派として行動している。それに抗して起ちあがったのがエリザベスというわけで、キャサリン夫人との対決に快哉を叫び、ダーシーとの和解に涙した読者もさぞ多かったことだろう。エリザベスはその合理主義、独立精神、そして純粋な愛情という点で、『ジェイン・エア』のジェインの先駆けともいえる存在である。ある場合には愛がプライドと偏見を克服し、またべつの場合には克服しなかったという結末は、国際政治の現実とも符合し興味ぶかい。このように本書はいろいろな意味で小さな大小説であり、小説の本質の一端を体現している。まさに「小説神髄」である。

Charlotte Brontë の “Jane Eyre”(4)

 チェスタトンの著作のうち、メモを取りながら文字どおり熟読玩味したのは『正統とは何か』だけだ。

正統とは何か

 学生時代、ある最後の授業のおわりに亡き恩師がこういった。「もし自殺したくなったら、死ぬ前に『正統とは何か』と『善悪の彼岸』を読め。それでも死にたかったら俺のところへ来い」
 原著 "Authodoxy"(1908)も持っているけれど、なにしろ訳者は福田恆存と安西徹雄のご両所だ(アップした本ではなく、ぼくの読んだチェスタトン著作集版では共訳になっている)。邦訳でじゅうぶんだろう。
 一方、『ヴィクトリア朝の英文学』をはじめ、あとの著作はすべて斜め読みか積ん読。これがいけなかった。若いころもっと勉強しておくべきだった、とこのほど痛感したが後悔先に立たず。年寄りにありがちな嘆きですな。
 シャーロット・ブロンテを論じたページだけパラパラめくってみても、前回引用した箇所以外にもいくつか気になるところがある。やはり古典を読む場合は、こんど調べたヴィクトリア朝のことのように、一定の基礎知識がぜったい必要なのではないか。アホ、おまえ、そんな常識さえ知らなかったのか、と上の恩師の呆れ顔が目に浮かんでくるようだ。
 いや知らなかったのではなく、ついよろず調べるのが億劫になりまして、はいぃ。
 ともあれ "Jane Eyre" は最適の古典入門書であり、あまり深く突っこまなくても、とりあえずメロドラマとしてそれなりに楽しめるし感動もできる。それが世界中の人びとから愛されている理由のひとつなのだろう。あ、またまた陳腐な指摘ですね。
 ところが意外にも深掘りできる作品である、というのが英語で読んでみてはじめて発見した「新事実」だ。たとえば終幕におけるジェインと牧師セント・ジョンの対決なんて、高校生のときは全然衝撃を受けなかった。Rochester はさすがに憶えていたけれど、St John? そんなやつ、いたっけ。
 年をとると妙なところに感心するのかもしれないが、ふたりの対決は本書でいちばん「知的昂奮を味わえる箇所」だと思う。しかし映像化しにくい場面でもあり、未確認だがフランコ・ゼッフィレリ監督作品『ジェイン・エア』ではカットされているかもしれない。(つづく)

Charlotte Brontë の “Jane Eyre”(3)

 これはいまさらいうまでもなく、文学ファンならずともタイトルくらいは耳にしたことがありそうな名作だ。そう断言できるのは、文学オンチの家人でさえ知っていたからだ。
 そんな名作を英語で読んだからといって、屋上屋を架す以外に、どんな感想が書けるというのだろう。本書にかぎらず、古典をあと回しにしてきた理由のひとつだ。あ、これもどこかでボヤきましたね。
 ともあれ、どうせなら、ウロおぼえの邦訳や映画のことはなるべく忘れ、ひたすら初見のつもりで取り組み、初見の読者だったらどう読むか、という観点から迫ってみよう。それなら少なくとも自分にとっては新鮮な駄文が綴れるのではないか。
 というわけで自己マンにひたるべく、着手前はもちろんレビューをでっち上げる際も、(数えるほどしか所持していない)文学評論集や、(ネットで読める)研究書、アマゾン掲載のレビューのたぐいは、ひとつの例外を除いて、いっさい目にしないことにした。Wiki さえ調べなかった。
 その例外とは、G.K.チェスタトンの『ヴィクトリア朝の英文学』である。

G.K.チェスタトン著作集 8 ヴィクトリア朝の英文学

Wikiさえ」と書いたが、じつは読み進むにつれ、ヴィクトリア朝についてだけはどうしても調べる必要を感じ、読了後に検索。いくらか参考にさせてもらった。
 そのときふとチェスタトンの名著を思い出した。たしかシャーロット・ブロンテも採りあげていたはずだよな、くらいの記憶しかなかったが、なにしろチェスタトンのことだ。きっとなにか鋭い指摘があるにちがいない。
 といっても、レビューを書く前に目にとまったのは、つぎのくだりだけだった。「つい昨日まで山賊であった男たちが、今日はたちまち鉱夫になる。古い世界の最後を代表する連中が、同時に新しい時代の粗雑な先端を支えねばならないのである。このような形でシャーロット・ブロンテは、ヴィクトリア朝的妥協のきわめて特殊な相を体現することとなった」。(安西徹雄訳『チェスタトン著作集8』、p.103)
 この「ヴィクトリア朝的妥協」ということばは、べつの意味で借用することにしたけれど、ふうむ、なんだこんなものか、とタカをくくり、そこで読みやめた。
 しかしさすがチェスタトン、タダものではありませんでした。ここまでこの記事を書いてきて、せっかくの機会だからと先を読んでみると、ゲッ、なんとこんな指摘がなされているではないか。「いずれにしても、ヴィクトリア朝文学に直接大きな影響を与えたのは、エミリーよりはシャーロットだった。その強力な貢献をただ一言で述べようとするならば、手取早く次のように言うことができるのではあるまいか。つまり彼女は、もっとも卑近なリアリズムを通じてもっとも高揚したロマンスに到達したということである」。(p.104)
 ああ、やっぱり「屋上屋を架す」でしたな! 表現こそ異なるけれど、骨子としてはぼくも似たようなことを、しかも格調低い拙文で綴ってしまった。あれはいったいなんだったのか。
 チェスタトンはまたこうも述べている。「要するにシャーロット・ブロンテは、異常なものの戦慄を平凡なものの退屈さのうちに隠す秘訣を発見したのだ。そして実際、彼女の作品の中でやはり『ジェイン・エア』が最高の作品であり、(中略)その理由も、この作品が、単に血のにじむ思いで書かれた自伝的な作品であるためばかりではなくて、同時に血湧き肉躍る探偵小説であり、しかも探偵小説として最高級の作品だというところにある」。(p.105)
 ははあ、『ジェイン・エア』がシャーロットの「血のにじむ思いで書かれた自伝的な作品」だったとはちっとも知りませんでした。知らぬが仏ってやつですな。けどぼくはタテマエとして、作品をして語らしめよ、という立場なので、ま、いいか。(ホンネは、作家の来歴を調べるのが面倒くさい)。
 それから、「最高級の探偵小説」というのはちとホメすぎなのでは。ただそれは現代的な目でながめた場合であって、19世紀の作品としてはやはり「最高級」なのかもしれない。なにしろ、ブラウン神父の生みの親がそういってるんですからね。
 意外だったのは、名著中の名著『正統とは何か』の著者にしては、Jane と St John の対決への言及がまったくないこと。あそこ、素人目には圧巻のように思えたんですけどね。それとも、カトリック信者の立場からすれば、べつにどうってことのない場面だったのかな。
 あと、ぼくのいう意味での「ヴィクトリア朝的妥協」も出てこなかった。ううむ、早トチリだったのか。(こんな泡沫ブログを目にするはずはないけど)英文科の先生がたの苦笑が聞こえてきそうです。(つづく)

Charlotte Brontë の “Jane Eyre”(2)

 ああ、やっと『ジェイン・エア』が "Jane Eyre" になった!
 高1のときだったか邦訳で読んだきりの『ジェイン・エア』。これもいつだったか一度観たきりのフランコ・ゼッフィレリ監督作品『ジェイン・エア』(1996)。

ジェイン・エア [Blu-ray]

 なかなかゴキゲンな映画だったけど、いい気分になったということしか憶えていない。そもそも原作のほうも、とてもおもしろかった、大筋はなんとく、という程度。
 それが原書に取り組む前の「予備知識」だった。
 そんな作品をどうして読みたくなったかというと、「現代から古典まで」と本ブログの紹介で謳っておきながら看板に偽りあり。いままで採りあげた19世紀英米文学の名作といえば、"Moby-Dick"(1851)だけ。それも英語で読みかえすのはあきらめ(原書をお読みのかたならご理解いただけるでしょう)、テクストは邦訳だった。

 数年前に退職してから、このニセ看板がずっと気になっていた。
 これをなんとかしなければと思いつつ、ただ、なにしろディケンズをはじめ大作が多い。ヘンリー・ジェイムズをはじめ、難解で知られる作品も多い。そこでついつい、あと回しになってきた。
 それでももう古希もすぎ、このへんで手をつけておかないと、ますます作業が困難になるのは目に見えている。じっさい、いまも血圧が高い。
 そこで思いついたのが『ジェイン・エア』。お粗末な予備知識ながら、あれならなんとかイケるのでは、とひらめいた。英語の難易度はさておき、中身といい長さといい手ごろかもしれん。
 正解でしたね。たしかに古典入門篇って感じだったし、雑感(2)で報告したとおり、イマイチ疑問をおぼえる箇所はいくつかあったけれど、総じて標準的な英語だった(ただしもちろん古い英語)。もっと早く取り組むべきでした。いや、それをいうなら、大昔、そもそも英語が好きになったときテクストに選ぶべきでした。あ、これはどこかでボヤきましたな。(つづく)

Charlotte Brontë の “Jane Eyre”(1)

 きのう、"Jane Eyre"(1847)を読了。途中、風邪をひいたせいか血圧が上がり、文字どおり頭をかかえながらの task となった。
 とはいえ、Slow and steady wins the race. いつにもまして、それぞれのシークェンスが全体に占める意味や役割、ひいては作者の意図などについてもじっくり考えることができた。それが正鵠を射ているかどうはさておき、その task は非常に貴重な体験であり、たぶん現代文学においても役に立つのでは、と期待している。
 ともあれ、本書は周知のとおり古典中の古典。はて、どれほど陳腐なレビューになりますやら。

Jane Eyre (Penguin Classics)

[☆☆☆☆★] 開巻、結末はすぐにわかる。不幸な娘ジェインはさいご、きっと幸せになるにちがいない。彼女は合理主義者であり、理不尽な仕打ちに正義の怒りをおぼえる。そんなジェインに読者は同情し彼女の幸福を願う。これが起承転結の起。承は、ジェインみずから運命を切りひらくことで訪れる。ロチェスターとの出会いは運命的であり、これも結末は読める。しかしそこから長い障害物競走がスタート。ハードルはまず年齢、身分、貧富の差であり、ついでロチェスターをめぐる謎と、彼の上から目線だが、なによりジェイン自身の元祖ウーマンリブともいえそうな独立不羈の精神である(これは結部までつづく)。ゴシックホラーもどきの奇怪な事件が起こり、恋敵も出現、いかにもメロドラマらしい展開だが、謎が合理的に解決されたところでふたりは離別。あくまで自分のポリシーを枉げぬジェインならではの運命の選択だ。転部でジェインの環境は激変するが、こうした変化はメロドラマには必須。そこに都合のいい偶然が重なるのも必須で、最大のハードル、牧師セント・ジョンとの対決を経て終幕を迎える流れも必然。いまや現代の読者には陳腐と思えるかもしれぬ筋立てだが、これは十九世紀中葉、ヴィクトリア朝の物語である。当時の読者にとって、ジェインの登場は相当なインパクトを与えるものではなかったろうか。規範的で保守的な道徳観がつよい時代にあって、上の合理主義と独立精神に加え、激しい情熱の持ち主でもあるジェインは、知情意、三拍子そろった「元祖ウーマンリブ」の代表だったともいえよう。そんな彼女とセント・ジョンのバトルは本書の圧巻である。セント・ジョンは敬虔だが頑迷なキリスト教徒であり、その言説は教条的でベルジャーエフのいう「ガラスの愛」を思わせ、冷たい。一方、ジェインの愛には熱い血が流れている。ふたりの対峙は新旧両価値観の衝突だったのかもしれない。ただ、ジェインはセント・ジョンに一定の理解と共感をしめし、それどころか彼のさいごの手紙を読んで涙する。チェスタトンのいう「ヴィクトリア朝的妥協」とはまたちがった意味で、シャーロット・ブロンテが時代と妥協した瞬間だったのではないか。ともあれ、メロドラマといえば恋と不幸、波瀾万丈の物語というのが現代の趨勢であり、本書は周知のとおりその鼻祖のひとつである。が、ヒロイン、ヒーローが美女美男ではないという点もふくめ、その内容はけっして通俗的ではなく、むしろジェインの造形にみるように、現代文学がもはやほとんど忘れてしまったかのような知的昂奮を味わえる箇所もある。故きを温めて新しきを知ることのできる名作である。

“Jane Eyre” 雑感(2)

 禍福はあざなえる縄のごとし。正月はスキー三昧でハッピーだったけれど、いまは高血圧で頭が重い。
 風邪をひいたせいかもしれない。常備の漢方薬をずっと服みつづけ、きのう、かかりつけの先生に症状と経過を報告したところ、コロナかインフルだった可能性もあるという。
 だとしても五日間すぎているから大丈夫。でもいちおう検査してみますか、と訊かれたが遠慮した。結果を知っても遅かりし由良之助だろう。
 というわけで "Jane Eyre"、いつにもまして順調にスローペースで進んでいる。その後いくつか気のついた点もあり、それをまとめるつもりでこの記事を書きはじめたのだが、考えてみると、本書は英文学ファンにはあえて紹介するまでもない古典中の古典。ぼくだって高1のときだったか邦訳で読んだことがあり、それをいま英語で読んでいるだけの話だ。
 どうせなら内容よりも、英語にかんする点のみにしぼっては、という気がしてきた。
 そこできょうは、なんとなく意味はわかるけどイマイチ、という箇所を二、三ピックアップしておこう。

1. As she [Miss Ingram] said this, she approached her tall person and ample garments so near the window, that I [Jane] was obliged to bend back almost to the breaking of my spine: ...(Penguin Classics, p.214)
  ネットで調べたところ、ここ、わりと有名なくだりのようで、いくつかヒットした。そのうち最初に訪れたのが WordReference.com Language Forum というサイト。恥ずかしながら知らないサイトだった。そこで Krishnameera というひとが、What can be the meaning of the highlighted part [tall person and ample garments]? と質問。
 その答えのひとつがこうだった。The girl was tall and she was wearing (probably) a dress with a very full skirt, as was fashionable at the time. She was taking up a lot of space, forcing Jane to move as far away as she could in order to keep out of her way.
 なるほど。思ったとおりの意味だったけど、それにしても、べつの回答者が述べているとおりヘンテコな approach の用例だ。Yes, but it's highly unusual (even for that period) to use 'approach' with this sort of object, the thing that you're causing to approach (something else).

2. In a day or two I [Mr Rochester] hope to pour them [jewels] into your [Jane's] lap: for every attention be yours, that I would accord a peer's daughter, if about to marry her.(pp.290 -291)
 ここも有名なくだりのようだが、最初の例と同じく WordReference.com Language Forum で調べてみた。するとこんどは lifebookmark というひとが、Hi all, I'm currently reading Jane Eyre and this part confused me (Chapter 24): ... What does the highlighted part [I would accord ... marry her.] mean?
 回答例は、The idea is that I will give you everything that I would give the daughter of a peer, if I were marrying her and not you. とか I will do all the things for you that I would do for the daughter of a peer, if I planned to marry such a lady.など。第二例のほうがわかりやすいかな。
 
3. I [St John] am ... a follower of the sect of Jesus. As his disciple I adopt his pure, his merciful, his benignant doctrines. I advocate them: I am sworn to spread them. Won in youth to religion, she has cultivated my original qualities thus:―From the minute germ, natural affection, she has developed the overhanging tree, philanthropy.(p.419)
 これまた有名な箇所のようで、Irelia20150604 というひとがこう尋ねている。Hi everyone! I'm puzzled by the bold part [Won in youth to religion, she ... philanthropy], especially "won" and "she" here, How to understand the sentence? My guess is as below. Won in youth to religion => I became a Christian when I was young. she has cultivated my original qualities thus… => Christianity has cultivated my original qualities in this way: she had developed the great love of humankind in general from the minute natural affection.
  すると回答は That's right.

 いやあ便利な時代になったものですな。おそらく古典なら、ぼくが利用した上のサイトのように、いろいろな疑問に答えてくれるサイトがけっこうありそうだ。そういえば、Faulkner を読んでいるとき、全作品の登場人物を紹介しているサイトがあり重宝したものだ。
 ってことで、いまからまた(高血圧で重い)頭をかかえつつ "Jane Eyre" を読むとしよう。

(相変わらずベートーヴェンのピアノ・ソナタを聴いている、ケンプのあと、ソロモン、リヒテルを数枚聴いて、いまはグルダ全曲盤)

Beethoven: Piano Sonata No. 1-32, Piano Concertos No. 1-5

Jonathan Escoffery の “If I Survive You”(2)

 ううむ、困った。これ、いったいどんな本だっけ。
 と一瞬焦ったが、拙文を読んで思い出した。そうそう、長編とも連作短編集ともいえるような作品で、最後の章(話)が本書と同じタイトルだった。

 とりあえず、メモを頼りに第一話 "In Flux" からふりかえってみよう。It begins with What are you? hollered from the perimeter of your front yard when you're nine―younger, probably.(p.3) 
  これが書き出しで、テーマも What are you? you は主人公の少年(のちに青年) Trelawny を指し、彼はいちおうジャマイカ系だが、いろんな血が混じり、自分のアイデンティティにこだわっている。そうせざるをえない人種差別の現実があるからだ。
 この重いテーマをコミカルに描いたところが本篇のミソ。いい出来だと思うけど、こんなストーリーと語り口、いままでもたくさんあったよね、ってことで☆☆☆★★。
 つづく第二話 "Under the Ackee Tree" では、Trelawny の父が you と呼ばれ主人公。And you know the boy [Trelawny] ruin, because is same words him repeating like warped 45:/ I'll chop down your tree./ I'll chop down your tree./ I'll chop down your fucking tree.(p.71)
 この親子対決にいたるプロセスがなかなか愉快で、やはり☆☆☆★★。
 親子対決といえば、Trelawny のいとこ Cukie 少年が父の Ox と壮絶なバトルを演じる第五話 "Splashdown" がスゴかった(☆☆☆★★★)。ぼくはそれまでニヤニヤ、クスクス笑いながら読んでいたのだけど、ここでぐっと引きこまれた。Cukie swims toward Ox. As he nears, Ox leans on the throttle so the boat pulls severeal yards away.(p.132)ここ、ほんとに息をのむシーンなんだけど、これ以上紹介できないのが残念。
   しかしなんといっても圧巻は最終話だ(☆☆☆★★★)。このタイトルを見たとき、ぼくは If I get over you の意かと思ったが、関係がありそうなくだりはこうだった。You assume that, should you survive long enough to become a grandfather or great-grandfather, you will outlive winter; you will outlive glaciers and polar bears and snow. And it occurs to you now that, should you survive to see your progeny reproduce, you will outlive and thus need to explain Miami to these descendants ... / It occurs to you that people like you―people who burn themselves up in pursuit of survival―rarely survive anyone or anything.(p.230)
   この you はふたたび Trelawny で、彼の目前には、上のくだりからは想像もつかないような危機が迫っている。というわけで、「はたして熱い男トリローニは人生の危機を脱して生きのこれるのだろうか」とぼくはまとめたのだけど、これまた隔靴掻痒、いやそれどころか、本篇のおもしろさはさっぱり伝わってこないことでしょう。
 レビューではもっとネタを割ってしまった。「トリローニが白人ペアの変態プレイにつきあわされ窮地におちいる寸劇も強烈」。まあ、これが限界ですな。
 こうしてみると、本書全体の美点としては、ひとつには設定の異常さ、といわないまでもユニークさ。あとひとつ、引用箇所からも推測できるとおり、語り口の軽妙さが挙げられると思う。
 そしてこのふたつが、「いまだ根づよい差別問題、不安定なアイデンティティ、家族の愛憎、下層社会の厳しい現実」といったおなじみのテーマを支えているのである。「いい出来だと思うけど、こんな」パターン、「いままでもたくさんあったよね」。
 ってわけで、本書を去年のブッカー賞最終候補作のランキングで第5位に格付けしたのは、手前ミソながら順当だったような気がします。

(相変わらずベートーヴェンのピアノ・ソナタを聴いている。バックハウスにつづいて、シュナーベル、ナット、そしてこのケンプ。ケンプも捨てがたいです)

Beethoven: The 32 Piano Sonatas