ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Charlotte Brontë の “Jane Eyre”(1)

 きのう、"Jane Eyre"(1847)を読了。途中、風邪をひいたせいか血圧が上がり、文字どおり頭をかかえながらの task となった。
 とはいえ、Slow and steady wins the race. いつにもまして、それぞれのシークェンスが全体に占める意味や役割、ひいては作者の意図などについてもじっくり考えることができた。それが正鵠を射ているかどうはさておき、その task は非常に貴重な体験であり、たぶん現代文学においても役に立つのでは、と期待している。
 ともあれ、本書は周知のとおり古典中の古典。はて、どれほど陳腐なレビューになりますやら。

Jane Eyre (Penguin Classics)

[☆☆☆☆★] 開巻、結末はすぐにわかる。不幸な娘ジェインはさいご、きっと幸せになるにちがいない。彼女は合理主義者であり、理不尽な仕打ちに正義の怒りをおぼえる。そんなジェインに読者は同情し彼女の幸福を願う。これが起承転結の起。承は、ジェインみずから運命を切りひらくことで訪れる。ロチェスターとの出会いは運命的であり、これも結末は読める。しかしそこから長い障害物競走がスタート。ハードルはまず年齢、身分、貧富の差であり、ついでロチェスターをめぐる謎と、彼の上から目線だが、なによりジェイン自身の元祖ウーマンリブともいえそうな独立不羈の精神である(これは結部までつづく)。ゴシックホラーもどきの奇怪な事件が起こり、恋敵も出現、いかにもメロドラマらしい展開だが、謎が合理的に解決されたところでふたりは離別。あくまで自分のポリシーを枉げぬジェインならではの運命の選択だ。転部でジェインの環境は激変するが、こうした変化はメロドラマには必須。そこに都合のいい偶然が重なるのも必須で、最大のハードル、牧師セント・ジョンとの対決を経て終幕を迎える流れも必然。いまや現代の読者には陳腐と思えるかもしれぬ筋立てだが、これは十九世紀中葉、ヴィクトリア朝の物語である。当時の読者にとって、ジェインの登場は相当なインパクトを与えるものではなかったろうか。規範的で保守的な道徳観がつよい時代にあって、上の合理主義と独立精神に加え、激しい情熱の持ち主でもあるジェインは、知情意、三拍子そろった「元祖ウーマンリブ」の代表だったともいえよう。そんな彼女とセント・ジョンのバトルは本書の圧巻である。セント・ジョンは敬虔だが頑迷なキリスト教徒であり、その言説は教条的でベルジャーエフのいう「ガラスの愛」を思わせ、冷たい。一方、ジェインの愛には熱い血が流れている。ふたりの対峙は新旧両価値観の衝突だったのかもしれない。ただ、ジェインはセント・ジョンに一定の理解と共感をしめし、それどころか彼のさいごの手紙を読んで涙する。チェスタトンのいう「ヴィクトリア朝的妥協」とはまたちがった意味で、シャーロット・ブロンテが時代と妥協した瞬間だったのではないか。ともあれ、メロドラマといえば恋と不幸、波瀾万丈の物語というのが現代の趨勢であり、本書は周知のとおりその鼻祖のひとつである。が、ヒロイン、ヒーローが美女美男ではないという点もふくめ、その内容はけっして通俗的ではなく、むしろジェインの造形にみるように、現代文学がもはやほとんど忘れてしまったかのような知的昂奮を味わえる箇所もある。故きを温めて新しきを知ることのできる名作である。