ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Charlotte Brontë の “Jane Eyre”(3)

 これはいまさらいうまでもなく、文学ファンならずともタイトルくらいは耳にしたことがありそうな名作だ。そう断言できるのは、文学オンチの家人でさえ知っていたからだ。
 そんな名作を英語で読んだからといって、屋上屋を架す以外に、どんな感想が書けるというのだろう。本書にかぎらず、古典をあと回しにしてきた理由のひとつだ。あ、これもどこかでボヤきましたね。
 ともあれ、どうせなら、ウロおぼえの邦訳や映画のことはなるべく忘れ、ひたすら初見のつもりで取り組み、初見の読者だったらどう読むか、という観点から迫ってみよう。それなら少なくとも自分にとっては新鮮な駄文が綴れるのではないか。
 というわけで自己マンにひたるべく、着手前はもちろんレビューをでっち上げる際も、(数えるほどしか所持していない)文学評論集や、(ネットで読める)研究書、アマゾン掲載のレビューのたぐいは、ひとつの例外を除いて、いっさい目にしないことにした。Wiki さえ調べなかった。
 その例外とは、G.K.チェスタトンの『ヴィクトリア朝の英文学』である。

G.K.チェスタトン著作集 8 ヴィクトリア朝の英文学

Wikiさえ」と書いたが、じつは読み進むにつれ、ヴィクトリア朝についてだけはどうしても調べる必要を感じ、読了後に検索。いくらか参考にさせてもらった。
 そのときふとチェスタトンの名著を思い出した。たしかシャーロット・ブロンテも採りあげていたはずだよな、くらいの記憶しかなかったが、なにしろチェスタトンのことだ。きっとなにか鋭い指摘があるにちがいない。
 といっても、レビューを書く前に目にとまったのは、つぎのくだりだけだった。「つい昨日まで山賊であった男たちが、今日はたちまち鉱夫になる。古い世界の最後を代表する連中が、同時に新しい時代の粗雑な先端を支えねばならないのである。このような形でシャーロット・ブロンテは、ヴィクトリア朝的妥協のきわめて特殊な相を体現することとなった」。(安西徹雄訳『チェスタトン著作集8』、p.103)
 この「ヴィクトリア朝的妥協」ということばは、べつの意味で借用することにしたけれど、ふうむ、なんだこんなものか、とタカをくくり、そこで読みやめた。
 しかしさすがチェスタトン、タダものではありませんでした。ここまでこの記事を書いてきて、せっかくの機会だからと先を読んでみると、ゲッ、なんとこんな指摘がなされているではないか。「いずれにしても、ヴィクトリア朝文学に直接大きな影響を与えたのは、エミリーよりはシャーロットだった。その強力な貢献をただ一言で述べようとするならば、手取早く次のように言うことができるのではあるまいか。つまり彼女は、もっとも卑近なリアリズムを通じてもっとも高揚したロマンスに到達したということである」。(p.104)
 ああ、やっぱり「屋上屋を架す」でしたな! 表現こそ異なるけれど、骨子としてはぼくも似たようなことを、しかも格調低い拙文で綴ってしまった。あれはいったいなんだったのか。
 チェスタトンはまたこうも述べている。「要するにシャーロット・ブロンテは、異常なものの戦慄を平凡なものの退屈さのうちに隠す秘訣を発見したのだ。そして実際、彼女の作品の中でやはり『ジェイン・エア』が最高の作品であり、(中略)その理由も、この作品が、単に血のにじむ思いで書かれた自伝的な作品であるためばかりではなくて、同時に血湧き肉躍る探偵小説であり、しかも探偵小説として最高級の作品だというところにある」。(p.105)
 ははあ、『ジェイン・エア』がシャーロットの「血のにじむ思いで書かれた自伝的な作品」だったとはちっとも知りませんでした。知らぬが仏ってやつですな。けどぼくはタテマエとして、作品をして語らしめよ、という立場なので、ま、いいか。(ホンネは、作家の来歴を調べるのが面倒くさい)。
 それから、「最高級の探偵小説」というのはちとホメすぎなのでは。ただそれは現代的な目でながめた場合であって、19世紀の作品としてはやはり「最高級」なのかもしれない。なにしろ、ブラウン神父の生みの親がそういってるんですからね。
 意外だったのは、名著中の名著『正統とは何か』の著者にしては、Jane と St John の対決への言及がまったくないこと。あそこ、素人目には圧巻のように思えたんですけどね。それとも、カトリック信者の立場からすれば、べつにどうってことのない場面だったのかな。
 あと、ぼくのいう意味での「ヴィクトリア朝的妥協」も出てこなかった。ううむ、早トチリだったのか。(こんな泡沫ブログを目にするはずはないけど)英文科の先生がたの苦笑が聞こえてきそうです。(つづく)