ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Carlos Fuentes の “A Change of Skin”(2)

 ぼくは "A Change of Skin" のレビューの中で、「現実と虚構が入り乱れた猥雑な狂騒劇が繰りひろげられる」終幕を「マジック・リアリズムの真骨頂」と表現したが、この終幕をどうとらえるかによって本書の評価も決まるのではないだろうか。
 「狂騒劇」が始まるまでは、まずまず楽しめる程度。現在と過去のエピソードが複雑に絡みあい、それを伝える話法もまた複雑。しかし「激しい愛の思い出」や「プラハ時代の甘美な恋物語強制収容所と戦争中の胸をえぐられるような体験」など、随所に光る場面があるし、「複雑なポリフォニーから成るフーガのような」叙述形式のおかげで、愛の断絶や贖罪という平凡なテーマも新鮮に感じられる。
 では、「ナレーターが実際の人物として本格的に登場し、以上のエピソードを再構成してみせる終幕」はどうか。ぼくはじつは本書を最後まで読んだあと、「狂騒劇」の部分だけ途中まで読みかえした。その意味を確かめたかったからだ。
 再読して気づいたのだが、ここは非常に colorful な英語で書かれていて、読み手の五感を激しくいたぶるような強烈なインパクトがある。邦訳は未読だが、日本語でこのインパクトを伝えるのはかなり難しいはずだ。英訳で読むメリットを感じた次第である。
 内容的にも迫力ある文体に比例してボルテージが上がり、売春宿での大騒ぎなどまさに「猥雑な狂騒劇」としか言いようがない。しかも、明らかに「現実と虚構が入り乱れ」ている点が「マジック・リアリズムの真骨頂」で面白いし、その混淆の中から次第に「各人物の心の再検証」が見えてくる展開も見事。
 …とまあ、最終的にはわりと感心したのだが、不満もなくはない。本書で現実と虚構を混淆させる意味が、ぼくには今ひとつ分からなかったからだ。あるいは現実の虚構性を示すねらいがあるのかもしれないが、それならその現実とは何か。メキシコの政治的現実か。少なくとも再読した範囲では、マジック・リアリズムによってしか伝えられない意味を発見することはできなかった。たしかに「五感を激しくいたぶるような」迫力には圧倒される。その「猥雑」ぶりもまた超弩級。だが、この現実は果たして、現実と虚構の混淆によってしか描きえない現実なのだろうか。
 …何だか身も蓋もない話になってしまったが、じつはこれはマジック・リアリズムの根幹にかかわる問題だと思う。今日は時間がないので、いつかまたフェンテスその他、ラテアメ文学に接したときにでもじっくり考えてみよう。