ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Teju Cole の “Open City” (3)

 さて、本書はめでたく今年の全米批評家(書評家)協会賞の finalists にも選ばれたことだし、ますます☆☆☆☆でいいのではないか、という気がしてきた。同賞の選考委員もきっと、現代の作品では珍しいほどの「文学的な深み」、つまり、主人公が「自己の内面を客観的に検証すればするほど、その客観性ゆえに自分を超えつつむ大きな問題にぶつかり、そこからまた個人的な問題へと立ち返る」といった点を高く評価しているにちがいない。だからぼくも、今回のノミネートには何の異論もない。
 けれども一方、ぼくは自分の第1インスピレーションにもこだわっている。本書はたしかに深い。だが、ある問題が深く追求されればされるほど、もっと深く! とつい思ってしまうのだ。
 たとえば、雑感(3)で引用した It seemed as if the only way this lure of violence could be avoided was by having no causes, by being magnificently isolated from all loyalties. But was that not an ethical lapse graver than rage itself?' (p.107) という箇所をふりかえってみよう。たしかに having no causes... being magnificently isolated from all loyalties というのは「重大な倫理的過失」である。理想を忘れた悪の座視は悪だからである。だが、rage itself もまた「重大な倫理的過失」となりうるのだ。
 数年前、ぼくはこのブログで、「"Moby-Dick" と『闇の力』」と題した一連の駄文をえんえんと書きつづったとき、こんなベルジャーエフの言葉を引用したことがある。「われわれが悪を根絶しようと夢中になると他人に対して寛容な心を失い、冷酷となり、悪意をいだき、熱狂主義者となり、容易に暴力に訴えるようになる。善人も『悪人』と戦ううちに『悪人』になる」。(『人間の運命』野口啓祐訳)
 つまり、「悪の座視」という悪と、E・M・シオランが『崩壊概論』で述べたような狂信という悪があり、ふたつの悪のうち、どちらがより「重大な倫理的過失」であるかは一朝一夕には決めることができないのである。
 どうせなら、そこまで深く書いてほしかった、というのがこの "Open City" を☆☆☆★★★とした理由のひとつです。主人公はいろいろな問題の核心にかなり踏みこんでいるのに、なにしろ「魂の彷徨」を続けているため、その問題について徹底的に語ることなく、また次の問題へと移ってしまう。だから、問題によってはもの足りない場合がある。これはやっぱり減点対象でしょう。
 …非常に厄介な道徳の問題を入り口だけでおしまいにするようでは、決して本書にケチをつける資格はないのだが、今日はもうヘトヘト。あとひとつ不満な点があるのだけれど、それはまた明日にでも。
  (追記)上を書いたあと検索したら、コスタ賞最優秀作品賞は、久しぶりに小説部門から受賞作が出ていた。Andrew Miller の "Pure" である(未読)。

Pure

Pure