ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Philippe Claudel の “Brodeck” (2)

 本書は大ざっぱに言うと、いわゆるホロコースト物に属する作品である。ぼくは今年の初め、Ruta Sepetys の "Between Shades of Gray" を読んだとき、こんなことを書いた。「ホロコースト物なら、これはもう今さら言うまでもなく、それこそゴマンとある。それゆえ、扱われている史実そのものには決して鈍感であってはいけないけれど、小説としては単純に、その出来不出来だけで判断してもヒンシュクは買わないだろう」。
 つまり、ホロコースト物と聞いただけで、不謹慎ではあるが、ああまたあの話か、と反応したくなる現状にあって、柳の下の何十匹目かのドジョウにならないためには、よほど斬新なアプローチがなければ小説としてはほとんど意味がない。その点、ぼくがここ数年のうちに読んだホロコースト物の中で最もすぐれているのは、Irene Nemirovsky の "Suite Francaise" である。(以下のレビューは再録ですが、点数は今日つけました)。

Suite Francaise (Vintage International)

Suite Francaise (Vintage International)

[☆☆☆☆★★] 読んでいるうちに思わず絶句してしまった。第二次大戦初期、陥落寸前のパリから脱出する人々の混乱ぶりは、映画『カサブランカ』に出てくる実写フィルムで知っていたが、あの映像の裏側にこれほど凄絶な人間ドラマがあったとは…。むろん、これはフィクションなのだが、ここには実際に阿鼻叫喚の修羅場を経験した者でなければ想像もつかないような迫真性がある。オートバイに乗ったドイツ兵が小さな村に現れる場面などが一例だ。しかし同時に、その凄まじい迫力は、著者が実体験を通じて人間性の本質を鋭く洞察した結果生みだされたものでもある。死と隣り合わせの極限状況に立たされた人間がさらけ出す醜いエゴ。知性や良心は結局、生存本能の前にもろく消え去ってしまうものなのか…そんな悲痛な叫びが聞こえてくる。第二部は占領下の村が舞台だが、小説としてのふくらみはさらに増している。その熟成はやはり、偏見や固定観念を排した著者の人間観察のたまものだ。残忍なはずのドイツ兵が示す思いやり、村人たちとの交流、芽生える微妙な恋心。その一方、平時と変わらぬフランス人同士の利害感情や階級意識、家庭内の対立。なかんずく、度しがたいエゴイズム。「人間が複雑な存在であることは自明の理だが、これを理解するには戦争のような重大事件が必要」という文中の言葉は重い。アウシュヴィッツにおける著者の死で未完に終わった本書だが、完成していれば不朽の名作になっていたことは間違いない。用紙節約のため極細の字で書かれた原稿の復元写真を見ると、鬼気迫るような作家魂を感じる。と同時に、この遺作を平和ぼけした国で読み、書評を書くことの意味について考えてしまう。なお、英語は平明で大変読みやすい。

 では、この "Brodeck" はどうかと言うと、"Suite Francaise" と較べるとさすがに見劣りするものの、これはこれですぐれた作品だと思う。まず寓話形式を採用することによって、民族浄化や大衆ヒステリー、強制収容所といった定番の内容にしても、それを生んだ「思想の怖さ」がストレートに伝わってくる。凄惨な場面をふつうに書けば、「不謹慎ではあるが、ああまたあの話か」となるところ、本書の場合、暴力よりも、暴力をふるう人間の心のほうが怖い。これは寓話ならではの効果だろう。
 ほかにも、主人公ブロデックが親しみを感じていた村人が突然、「ガラスのような目」をする場面がある。これも怖かった。ぼくは学生時代に体験したある事件のことを思い出した。ノンポリだったぼくはその日、いつものように、ある校舎の一階の通路を通り抜けようとした。すると、その周辺にいた数人の学生たちが一斉にこちらをふり向き、全員「ガラスのような目」でにらみつけてきたのだ。そのときの怖さは今でも忘れられない。それからしばらくして、彼らはそこにバリケードを築いていた。
 ベルジャーエフの『人間の運命』にこんな一節がある。「キリストは『なんじの隣人を愛せよ』と教えたが、『なんじより遙か遠く離れているものを愛せよ』とは教えなかった。この区別は非常に大切である。なぜなら、遠いものへの愛――つまり『人間一般』あるいは『人類』にたいする愛――とは生きた人間への愛ではなく、まさに抽象的観念や抽象的善への愛にほかならないからである。ところが、われわれは往々にしてこのような抽象的観念を愛し、そのために生きた人間を犠牲にしてしまうことがある。たとえば、革命のとき人々がふりかざす『ヒューマニズム』がそれである。……ヒューマニズムの説く愛は抽象的、非人格的な愛である」。(野口啓祐訳)
 このような「非人格的な愛」は「ガラスの愛」である、とベルジャーエフは言う。上に紹介した村人の「ガラスのような目」は、それほど深い思想ではなく、むしろ動物的な保護本能やエゴイズムを発揮したものなのだが、隣人をそういう目でながめる人間の心がいかに恐ろしいか、この場面は如実に物語っている。