ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Tan Twan Eng の “The Garden of Evening Mists” (3)

 ぼくとしてはできるだけ本書を「純粋にフィクションとして見る」努力をしたつもりだが、ひるがえって、小説を「純粋にフィクションとして見る」とは一体どういうことなのだろう。構成や表現の巧みさ、テーマや各場面が与える感動、人物の生き方のみごとさなどを素直に受けとめることか。だが、そこに表現されているアイディアやテーマ、人生の内容について考えることなく、はたしてそんな芸当ができるのか。さらに、本書には歴史小説の要素もあるわけだが、作者の歴史観を無視して歴史小説を「純粋にフィクションとして見る」ことが可能なのか。というわけで、もっぱら技法的な観点から「純粋にフィクションとして見る」うちに、結局のところ、その技法が示す作者の人間観、歴史観についても検討せざるをえないのである。
 本書の主人公 Yun Ling が他の人物とこんな会話をかわしている。(YL) "A tattoo created by the emperor's gardener is a rare work of art. It should be preserved." / "But you hate the bloody Japs!" / "That's another matter entirely." (p.317) つまり、日本兵の蛮行と精妙な日本文化はまったくべつものだ、という認識がここにはある。ぼくはこういう認識の仕方に大いに疑問を覚える。
 雑感にも書いたように、ぼくは大学時代、体育で弓道を選択したので、本書に出てくる弓矢の使い方や、弓道場の雰囲気などを読むと、よくまあ〈日本人の心〉を的確にとらえていることかと感服した。枯山水や浮世絵、刺青などについても同様のことが言えるものと思う。
 だが、ぼくはいたく感心すると同時に、こんなふうにも考えた。もし日本のことをまったく知らない欧米人が本書を読んだとしたら、日本人はなんとフシギな民族なのだろう、と疑問に思うのではないか。「庭の心」まで読みとるほど繊細な感覚をもち、美しい芸術作品を生みだしてきた国民が、南京で何十万もの中国人を虐殺し、マレー半島でも住民を虐殺し、捕虜収容所で捕虜を虐待し、従軍慰安婦を強制連行し、病院船を空爆し、船から逃げだした婦女子をつかまえレイプして殺すとは、これが同じ民族のすることか。いったい日本人とはどんな人種なのか。理解不能
 ぼくは、「よしんば(上記のような)蛮行が事実であったとして、〈もののあはれ〉を愛する民族がなぜ『鬼畜』と化したのか」という問題は、日本人にとって「根本問題」であると思う。その「根本問題」を解き明かすためには、そういう蛮行に走った過程をつぶさに検証しなければならない。「鬼畜」の心をしっかり分析しなければならない。
 ところが本書の場合、「繊細な心理描写」の対象となる日本人は、Aritomo をはじめとする「一部の良心的な人間」にかぎられている。作者は「木々や草花、風のそよぎをはじめ、微妙な色や〈空気の濃淡〉にいたるまで静かな筆致でみごとにとらえて」おきながら、大半の日本兵にかんしては、まったく心理描写に値しない石ころなみの扱いなのだ。いや、綿密に描かれないという意味では、庭石以下の存在である。「鬼畜」に心はない、ということなのだろうか。
 ここでジョージ・スタイナーの『青ひげの城にて』を引用しておこう。「日本兵の蛮行と精妙な日本文化はまったくべつもの」なのではなく、「よしんば蛮行が事実であったとして、〈もののあはれ〉を愛する民族がなぜ『鬼畜』と化したのか」と考えるべきだ、とぼくが思う根拠である。「明らかに文学的な感受性、芸術的な感受性と野蛮残酷な、政治的なサディズムとが、同一人物のなかに共存し得ることをわれわれは知っている。たとえば、東ヨーロッパでユダヤ人問題の『最終的解決』を執行したハンス・フランクのような連中は、バッハやモーツァルトの熱心な鑑賞家でもあり、時には演奏家でもあった。拷問者とガス焼却炉の官僚体制のなかにあった職員で、ゲーテを知り、リルケの詩を愛する教養を持った人間のいたことをわれわれは知っている」。(桂田重利訳) 
 ホロコーストの問題はさておき、日本人の場合、〈もののあはれ〉はなぜ、Yun Ling が言うような蛮行の歯止めとならなかったのか。この「根本問題を素どおりして、一部の良心的な人間と大半の獣人に色分け」する作者の人間観には、ぼくはまったく共感できない。それどころか、上のスタイナーや、「人間は天使でも獣でもない」と述べたパスカルなどとくらべ、なんと皮相浅薄な人間の見方かとさえ思う。……疲れました。今日はこれにて。