ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Tan Twan Eng の “The Garden of Evening Mists” (4)

 要するに本書には、人間を簡単に善玉と悪玉に分けてしまう人間観が認められる。じつはそこに全体主義の恐怖が、虐殺の論理がひそんでいるのだが、話を広げすぎないように元に戻ろう。
 この本の最大の読みどころは、雑感にも書いたとおり、「日本人を憎んでいる Yun Ling と、元は天皇おかかえの庭師だったという Aritomo のからみである」。恩讐の彼方へ、とまでは言わないが、立場の異なる2人が徐々に接近し、さりとて安易な妥協もしない点には大いに好感がもてる。つまり、2人のあいだには適度の緊張関係があり、それが本書をすぐれたフィクションたらしめている。
 ところが、このフィクションとしての緊張関係は、「いわゆる従軍慰安婦南京大虐殺、日本の戦争責任など、日本人にとって看過することのできない重大な歴史問題、政治問題」から生じるものと言っても過言ではない。とりわけ、「本書の根幹のひとつに、従軍慰安婦の存在があること」は間違いない。参考までに、作者は「あとがき」で、George Hicks の "The Comfort Women: Japan's Brutal Regime of Enforced Prostitution in the Second World War" という著書を出典として挙げている。同書の学術的な価値はわからないが、ともあれ、いくら本書を「純粋にフィクションとして見」ようとしても、そのフィクションが事実もしくは事実らしきもの、あるいは作者が事実と考えるものから成り立っている以上、どうしても上記の歴史問題についても検討せざるをえない。
 このとき、ぼくが作者の立場でいちばん気になるのは、「図式的な人間観は、図式的な歴史観にも通じている」のではないか、という点である。ちょうど「人間を簡単に善玉と悪玉に分けてしまう」ように、人間の行為を、歴史を、さらに言えば戦争をあっさり善悪で判断しているのではないか。こう述べると、昔からほとんど、「お前は戦争を肯定するのか、日本の侵略戦争を正当化するのか」という短絡的な反応しか返ってこないので、ぼくはこの問題について長らく口を閉ざしてきた。
 ただ、数年前、このブログで『"Moby-Dick" と「闇の力」』と題し、えんえん20回以上にもわたって駄文を綴ったことがあり、その中で、戦争や革命、虐殺、テロなどが発生するメカニズムについて詳しく論じたつもりだ。それゆえ、ここではもう同じ話を蒸しかえしたくない。ただひとこと、戦争の問題はそれほど「あっさり善悪で判断」できるものではないですよ、とだけ言っておこう。
 そう言えば、たまたまこの夏、ある人からこんな暑中見舞いを頂戴したばかりだ。「立場が異なるだけで、一つの事象から正悪、功罪相反する見方が生まれるものです」。ぼくのダメ人間ぶりを指摘したお叱りの言葉だが、これはそっくりそのまま戦争の問題についても当てはまると思う。