ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

2012年ぼくのベスト5小説

 ぼくの〈娯楽人生〉、今年の下半期は諸般の事情で先月なかばから失速。おかげで充実感がまったくない。それでも数えてみると、上半期より1冊だけ多く読んでいた。
 そのうち、☆☆☆☆以上は9冊で、全体の3割近くある。ただし現代小説、それもこの2年以内に出版されたものにかぎると3冊しかない。同じ基準で上半期をながめると、なんと2冊しかなかった。それゆえ、なんだか機械的だが、この5冊がぼくの今年のベスト5ということになる。以下、読んだ順にレビューを再録しておきます。
 最近のモーロクぶりからして、来年は何冊読めるか怪しいものだが、ボケ防止にボチボチ読んでいこうと思っている。数少ないリピーターのみなさま、どうぞよいお年を。

〈下半期〉

[☆☆☆☆] 幕切れ寸前、ミステリでもないのに高まるサスペンスに心臓がドキドキ。茫然としながら最終章を読みおえた。ふたつの流れがいつかは結びつくものと思っていたが、まさかこうなるとは。人生の断面を鮮やかに切りとった、とてもウェルメイドな小品である。夏の終わり、イギリス人の中年男フスが休暇を利用してライン川ぞいのハイキング。道々思い出すのは、別れたばかりの妻や、少年時代に離婚した両親、幼なじみの友人とその母など。どの場面でもまずフスの行動が淡々と描かれるうち、灯台を模した香水瓶やタバコ、懐中電灯などが引き金となり回想がはじまる。この小道具の使いかたがじつにうまい。男の孤独な匂いもいい。また過去・現在を問わず、各人物の微妙な心理のからみあいから生じる静かな緊張感がみなぎり、ホームドラマ、メロドラマとわかっていても目は終始釘づけ。一方、フスが最初に泊まった小さなホテルでも、経営者の妻で浮気な女エスターを中心に〈心のさざ波〉が静かにうねりつづける。フスとエスターはどうつながるのか。胸を打たれる感動的な物語というほどではないが、いつまでも少年の心をうしなわぬ男フスの人生を香水瓶が象徴しているように、行間に深い余韻のある佳篇である。
The Orphan Master's Son: A Novel

The Orphan Master's Son: A Novel

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[☆☆☆☆] かつては「地上の楽園」と信じる人びともいたが、相変わらず秘密のヴェールにつつまれながらも、いまや独裁国家であることが明らかな北朝鮮。小説でもその恐怖の現実が描かれるのは当然だが、本書にはいくつか予想外のユニークな設定がある。まずこれが名画『カサブランカ』の本歌取りとなっている点だ。開巻、工作員による日本人の拉致というショッキングな事件に絶句。脱北した漁民の美しい妻と工作員のふれあいに情感がこもり、しんみりとなるが、驚いたことに第二部ではその工作員が軍司令官となっている。その変身のいきさつが彼自身の行動記録、「司令官」を取り調べる尋問記録、そして「司令官」の物語を流す国営放送という三次元中継で次第に明らかにされる。この複雑な語りの構造と、第一部もふくめた彫りの深い人物造形がじつにみごと。また、国民的女優でもある「司令官」の妻が「これは夢なのか」と洩らすように、現実がフィクションと融合し、マジックリアリズムの世界に近づいている点も見逃せない。全体主義の体制では〈不都合な真実〉が隠蔽され、真実の代わりにフィクションが真実となる。全体主義の現実とは、まさにマジックリアリズムの世界なのである。それを端的に物語る漫画チックな結末はケッサクというしかない。しかも、心臓バクバクものの緊張がピークに達した瞬間、北朝鮮版『カサブランカ』であることがわかる設定の妙。「秘密のヴェールにつつまれ」た国を舞台に、よくぞここまでフィクションを組み立てたものと大いに賞賛したい。[☆☆☆☆] 膠着状態におちいったイラク戦争を背景に、戦争の大義の虚妄と、大義を信じたがる国民の軽佻浮薄、偽善と大衆ヒステリーを痛烈に諷刺した反戦小説。彼の地でめざましい戦果をあげた青年兵ビリーたちブラボー分隊の面々が一時帰国、ブッシュ政権選挙対策に駆りだされ、全米の主要都市を凱旋ツアー。その終点ダラスでおこなわれるスーパーボウルのハーフタイム・ショーに、なんとビヨンセたちともども出演。分隊の活躍を女優が主役で映画化する話ももちこまれるなど、終始一貫、ナンセンスなドタバタ劇の連続だが、ビリーたちを賞賛する人びとの声や、反テロ戦争の正義を訴える試合前のアジ演説などと平行してコミカルなエピソードが盛りこまれるうち、上記の諷刺の意図が明らかになる。圧巻はやはりハーフタイム・ショーだ。ド派手な光と音の饗宴は本書における茶番の総決算であると同時に、イラク戦争アメリカ国民の大衆ヒステリーを象徴する壮大な狂騒劇となっている。口語や俗語を駆使した、すさまじいパワー全開の文体に圧倒され、ビリーとチアリーダーのお熱いシーンもあっておおいに楽しめる。思わずほろっとさせられる結末もいい。が、いささか気になる点もある。諷刺とは、鋭い批判精神と深い真実の洞察から成りたつものだが、本書の場合、諷刺の原点は、戦争が「生と死の究極的な問題」であり、また「愚劣な死の大量生産」であるとの認識にある。たしかに一面の真理だが、たとえば、悪の座視は悪であるとか、正義と正義の衝突が戦争であるといった側面は描かれない。〈正義病〉にかかったアメリカ人の幼児性も諷刺の対象となっているが、幼児の軽薄を嗤うためには大人の知恵を有していなければならぬ。が、大人の知恵とは、ものごとのあらゆる面をとらえる英知ではないのか。ある一面を戯画化して笑いのめすのが諷刺である点を考慮しても、本書の諷刺は一面的に過ぎる。戦争を真に諷するためには、人間がついに天使たりえない不完全な存在であるという洞察が必要である。そうした悲劇的人間観が欠けているがゆえに、本書に心から感動することはできない。

〈上半期〉

[☆☆☆☆★] 作中人物の言葉をもじっていえば、「現代において結婚は小説の題材たりうるのか」。本書は、この疑問にたいするみごとな解答である。と同時に、結婚が主要なテーマのひとつだった十九世紀英文学の本歌取りでもあり、伝統的な小説作法を踏襲しながら現代文学の技法も活用。内容的にも現代のさまざまな事象や風俗を取りいれ、結婚という古典的なテーマに新風を吹きこんでいる。つまりこれは、古典と現代の融合という文学的な野心に満ちた作品なのだ。主な舞台は80年代のアメリカ東部。名門ブラウン大学で英文学を専攻する女子学生マデリン・ハンナが卒業式を迎えた日から物語ははじまる。彼女にふたりの男子学生がからむ三角関係と結婚狂騒曲。要するにそれだけの話なのに、これが無類におもしろい。文学や記号論、宗教、生物学など専門的な分野への脱線は知的昂奮をかきたて、三人とマデリンの親や姉、友人たちとのふれあいは抱腹絶倒もの。それぞれの心理を緻密に描きこんだかと思うと、小気味よくアクションを活写するなど、緩急自在のテンポがじつにすばらしい。どの細部も饒舌にして愉快な仕上がりで、その積み重ねがやがて主筋を形成するのは古典小説の定石であり、一方、同じエピソードを複数の人物の視点によって再構成しながら物語を展開させるのは現代文学の成果。マデリンの文学研究が実際に小説として応用され、彼女と相手の男性の人生が小説化されるところはメタフィクションそのものだ。こうした華麗な文体と巧妙な技術が凡庸なテーマを支える本書は、まさに「小さな説」という小説の典型例である。[☆☆☆☆] 日本人にとって自由とは、いまさら言うまでもなく空気のようなものだ。しかし本書を読むと、自由の意味をあらためて思い知らされ興味ぶかい。ブレジネフ時代の旧ソ連、ラトヴィアからユダヤ人一家がイタリアへ。といっても、政治的自由を求めたり、迫害から逃れようとしたりしたわけではなく、移住の動機はすこぶる不純。金儲けや気ままな暮らしを望む息子たちが決めたもので、共産党幹部の老父サミュエルも恥をしのんで亡命につきあう。が、当初の目的地アメリカ行きは頓挫し、ローマで足どめ。この宙ぶらりんで中途半端、不安定な仮住まいこそ、じつは自由の現実と本質なのでは、と思えるところがおもしろい。そもそもサミュエルには精神的自由がない。将来の希望もなく過去に縛られ、第二次大戦で戦死した弟の思い出など悲痛な体験が胸によみがえり、切ない。長男カールと次男アレックの行状には、自由と責任という定番のテーマが読みとれる。アレックは軽薄なプレイボーイで、カールともども不倫現場を押さえられるくだりなど抱腹絶倒ものだが、人生を甘く見たツケがまわり、彼らは緊迫したノワールな世界に突然放りこまれる。ことほどさように悲喜こもごも、自由にまつわるドラマは多岐にわたり、自由に生きようとすればするほど、ひとはその危うさ、むずかしさ、こっけいさなど、さまざまな局面に出会う。本書はそうした自由の現実の一端をみごとに誇張して描いた特筆すべき作品である。