ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

"Klingsor's Last Summer" 雑感(11)

 本ブログを再開した初回にも書いたことだが、例によって不勉強のぼくには、ヘッセといえば『車輪の下』や『デーミアン』などで有名な青春小説作家、くらいの認識しかなかった。ところが、巻頭の短編 "A Child's Heart" に引きつづき、中編 "Klein and Wagner" でも内省的な主人公が登場。ひたすら「自分の内面検証に励んでいる」。ヘッセがこんな作品を書いていたとはつゆ知らず、不勉強ゆえの意外な発見と言うしかない。「青春小説作家」というのはおそらく、とんでもない誤解だろう。上の2作についても半世紀ぶりに読み返してみれば、え、こんなに深い内容だったのか、と不明を恥じることになりそうな気がしてきた。
 ともあれ、Klein の「精神の放浪、魂の彷徨」はなおも続く。夢に出てきた劇場のことを思い出し、'.... was that not himself, was it not an invitation to enter into his own interior being, into the foreign land of his true self?' (p.116) と自問。自分の恋愛遍歴をふりかえり、'Then you looked into the bottom of it [everything you loved] and saw no sign of love in it, as you found no sign of love when you looked to the bottom of your own heart. There was only greed for living and dread [of the cold, of loneliness, of death] ....' (pp.133-134) と述懐。ただもう「真の自己」「心の奥底」を見つめ、そこに潜む 'filth and iniquity' や 'disorder and dissension'、'dichotomy'、'an enemy....who barred the way to happiness' などをみずから暴露しているのだ。その結果、Klein は恋をした少女にこう宣言する。'We are all sinners, we are all criminals, merely because we are alive.' (p.129)
 さらに、鏡に映る自分の顔を見て Klein は言う。'This face belonging to the former Friedrich Klein was done for and used up; it had served its time. Doom screamed out of every furrow. This face must vanish, it must be extinguished.' (pp.135-136)
 ううむ、ちょっとネタをバラしすぎたかな。最後のくだりから、本編がどんな結末を迎えるか察しがつくことでしょう。
 と思いつつあえて引用したのはほかでもない、要するに「今までの人生はいったい何だったのか」という、いわば実存の疑問に駆られた Klein は、究極の選択をするほどまでに徹底的な内面検証を行なっている。そのことを示したかったからである。
(写真は宇和島城)。