ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Patrick Modiano の “Paris Nocturne”(5)

 本書がらみの与太話をもうひとつだけ。今回、いつにもまして駄文を綴っているわけは、レビューでバラした以上にネタを割りたくないからだ! いや、割れないからだ!
 それほどまでに本書は、巧妙かつ繊細な作りになっている。大げさに言えば、全編これ布石だらけ。布石はやはり布石のままのほうがいい。
 最初は、そんなに計算しつくされた作品だとは思わなかった。「パリの夜。青年時代に遭った交通事故を中年男がふりかえる」。やがて「事故前後、少年時代から現在まで、霧の中から記憶の断片が次第に浮かび上がり、おぼろげに男の人生が見えてくる」。
 こうした過去への旅は、現代小説の基本テーマのひとつと言っていい。最近読んだ本にかぎっても、今年のブッカー賞候補作、Elizabeth Strout の "My Name Is Lucy Barton" (来し方をふりかえれば、忘れえぬ人びと。忘れえぬことども……)や、今年の全米図書賞候補作、Jacqueline Woodson の "Another Brooklyn" (思い出すことども。それは人との出会い、そして別れである……)などがある。(余談だが、こうして読み返してみると、ぼくのレビューはワンパターンですな)。
 だから本書も初めは、ああ、また例の思い出話か、というくらいにしか思わなかった。いや、ほとんど最後までそう思っていた。「孤独、疎外、倦怠、実存の不安。男は必死に自己を確立しようと、たゆたう記憶の中でもがき苦しんでいる」。ふむふむ。なかなかよく書けてますな。でもこれ、よくある話だよね。
 と、そこで目にしたのが最後の1行に続く余白である。えっ、と思わず叫んでしまった。ほんとに驚いた。こんなエンディングは、ぼくの狭くて浅い読書体験では、ちょっと記憶にない。
 いわゆるオチではない。深い余韻というのとも違う。そんな次元のものではない。
 とにかく、その余白から、記憶に残っているシーンを思い浮かべたとき、「その意味が強い衝撃をともない伝わってきた」。「なるほど、そういうことだったのか」。
 そのひとつがこんな場面だ。The other evening, at the south terminal of Orly airport, I was waiting for some friends who were coming back from Moroco. The plane was delayed. It was past ten o'clock. The large hall to the arrival gates was almost deserted. I had the odd feeling that I had arrived at a kind of no man's land in space and time. Suddenly I heard one of those disembodied airport voices repeat three times: .... (pp.51-52)
 この空港アナウンスで30年ぶりに「その名」を聞いた「私」は、すぐさま係員に問い合わせるが、結局その人物とは会えない。
 これを読んだとき、ぼくはいちおう、「空港で名前を聞く」とメモしたものの、それはべつに何か気になったからではない。むしろ、何とも思わなかった。ただ単に粗筋を忘れないためのメモにすぎなかった。
 けれども、最後の余白からふりかえってみると、じつは「それは胸が張り裂けるような瞬間」だったのである。本書は、そういう瞬間に充ち満ちた作品である。が、読んでいる最中は、そのことにまったく気がつかない。いやはや、すごい作家もいるもんだ、とぼくは完全にノックアウトされてしまった。
(写真は、宇和島市堀部公園からながめた来村(くのむら)川と市街風景。退職したら、ぼんやりこの風景を目にしながら、あわただしかった都会生活を思い出すのかもしれない)