ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

"The Go-Between" 雑感 (4)

 本書は雑感(1)でも紹介したとおり、ガーディアン紙によれば、"A masterpiece of innocence lost" とのこと。今のところ、この寸評はどうも当たっているようだ。
 最後にどんな事件が待ち受けているか、まだ正確にはわからない。いくつか布石、暗示らしきものが読み取れるので、輪郭は少しずつ浮かび上がっている。当たり障りのないところで言えば、12歳の少年 Leo が熱を上げている年上の美しい娘 Marian。彼女の恋愛沙汰が引き金で突発的に何かが起こりそうだ。
 よくある話である。また、innocence lost というのも青春小説の定番のテーマだろう。子供が大人へと成長していく過程、つまり通過儀礼をえがいた小説や映画は、よほどの新工夫がないかぎり、もはや陳腐のそしりを免れないかもしれない。
 こうした点を考慮に入れても、本書は途中報告ながら傑作、少なくともよく出来た青春小説であるように思う。きょうは、その理由をひとつだけ挙げておこう。
 事件は Leo がほぼ50年前、1900年の夏、Marian の住む屋敷 Brandham Hall で過ごしたときに起こる。そこで時折、現在の Leo の注釈が混じる。It is I, the elder, the old Leo, who am making this post-mortem; at the time I didn't analyse my feelings much; I was content to feel the pressure of circumstances relax, and myself slipping into my humdrum, pre-Brandham state of mind, with nobody's standards to live up to except my own. (p.232)
 ここには、大人になることのひとつの意味が端的に示されている。つまり、自分で自分の感情を分析できるようになることだ。これを明らかにしている点だけでも、本書の出来ばえがうかがい知れるのではないか。
 「自分で自分の感情を分析する」。言うは易く行なうは難し、である。子供はもちろん、大人でさえも、自分の心を客観的に見つめることは容易ではないかもしれない。少なくとも、ぼく自身は、まだまだ大人になりきれていない、と反省することが多い。
 じつは何年か前、ぼくはとんでもないサギにあったことがある。いま思うと、怪しい証拠はいくらでもあったのだが、当時のぼくにはそれが見えなかった。
 みごとにダマされたのは、もちろんダマしたほうがいちばん悪いのだが、ダマされたほうも悪い。まるでダマしてくださいと言わんばかりに、何ごとも自分の都合のいいように解釈していた。自分で自分の心を顧みず、いわば自分で自分をダマしていた。
 去年の暮れ、ぼくはたまたま Tove Jansson の "The True Deceiver" を読んだばかりだが、「真の詐欺」とは自己欺瞞であり、「本当のダマし屋」とは自分自身だったのである。
 このサギ事件のことを思い出すと、とうに還暦を過ぎたオジイチャンのぼくも、弱冠12歳の Leo 少年とたいして変わらない。いったい、いつになったら大人になるんだろう、とイヤになってしまう。
(写真は、宇和島市神田(じんでん)川にほど近い泰平寺の裏山(再アップ)。昔はこれほど墓が多くなく、夕暮れまでよく遊びまわったものだ)