先日テレビのクイズ番組で、「最近の小学校からなくなったものは何か」という質問があった。解答者もぼくもすぐに正解。
もちろん「二宮金次郎さんの銅像」だが、銅像の消えた理由を聞いてビックリ。「歩きながら本を読んでいると危険だから」。金次郎さんの真似をした子供が交通事故に遭うかもしれないのだという。
銅像についてきちんと説明すればいいだけの話なのに、と呆れたが、ひょっとしたら先生方も二宮金次郎のことをあまり知らないのかも。いやそんなことはない、これも道徳教育の形骸化の一例だろうか。
なんていうキレイごとはさておき、"Milkman" に話を戻そう。主人公の若い娘も〈歩き読み〉を義理の兄から注意される。理由はやはり危険だからというのだが、その危険の意味が日本の場合とは異なっている。And why should I not? I knew that by reading while I walked I was losing touch in a crucial sense with communal up-to-dateness and that that, indeed, was risky. It was important to be in the know, to keep up with, especially when things here got added on to at such a rapid compound rate.(p.65)
つまり、〈歩き読み〉は自分の世界に閉じこもり、社会との接触を断つ行為だから危険なのだというわけだ。一読お分かりのとおり、このくだりは本書が情報化社会をモチーフにしたアレゴリーであることを端的に物語っている。
そんな娘の〈歩き読み〉は、周囲の「政治状況を認識しながらコミットメントを避け」る、という彼女の政治的立場をも示している。その点がぼくにはとても興味ぶかかった。
というのも、ぼくはいまでこそ家の中で本を読むことが多くなったが、宮仕えのころはじつは〈歩き読み〉が得意だった。それから、「政治状況を認識しながらコミットメントを避ける」というのは、ぼくの政治的立場でもあるからだ。よって本ブログでも、対象が政治小説でもないかぎり、関係のない政治の話題はほとんど採り上げたことがない。
が、きょうはひとつだけ気になることを書いておこう。西日本豪雨の際、ぼくのふるさと愛媛県宇和島市でも大変な被害が出た。吉田町でみかん農家を営むぼくの友人の畑も崩落。最近、「皆元気に過しています」という葉書をもらったが、当時は集落の人たちが避難所生活を余儀なくされた。
そのとき聞いた話だが、さいわい避難所には支援物資がたくさん届けられ、衣類など有り余るほどだったという。むろん不便なことも多かったにちがいないが、少なくとも劣悪な環境ではなかったようだ。
ところが、当時の新聞によると、自衛隊その他、政府の支援体制が十分かどうかという聞き取り調査にたいし、与党と野党の支持者によって大きく回答が分かれたそうだ。正確な数字は忘れたが、前者はそこそこ満足、後者はかなり不満という結果だったと記憶する。
むろん地域差や個人差はあるはずだが、それにしても「与党と野党の支持者によって大きく回答が分かれ」るのはなぜだろう。たとえば支援物資が不足しているかどうかという問題など、平均すれば答えにそれほど個人差もあるまいに、とフシギに思ったものだ。
考えられるのは、ぼくたち自身、政治的なバイアスでものごとを判断するようになっているのではないか、そういう人が増えているのではないか、ということだ。それが「気になる」のである。
この "Milkman" では、「事実を検証せず、自分の偏見と先入観に気づくこともなく、立場の異なる相手を糾弾する社会」が描かれている。遠いアイルランドの話だと安心してはいられない。東洋の島国でも同様の状況があるように思えてならない。
(写真は、実家の菩提寺、愛媛県宇和島市佛海寺の裏山。この桜の木の下で、母が娘時代によく花見をしたという。ぼくもいつか、こんな景色を墓の中から眺めることだろう)