ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Joyce Carol Oates の “Expensive People”(2)

 きょうから愛媛の田舎に帰省。途中、松山に寄り、ひさしぶりに「瓢月」で熱いうどんを食べた。おいしかった!

 夕刻、宇和島着。母の入所している老人ホームを訪れたあと、実家でコンビニ弁当を食べながらこれを書いている。
 初めてタブレットを使用。キー操作がよくわからず試行錯誤の連続だが、ここまで頑張ったところで少し馴れてきた。
 道中読んでいたのは Joyce Carol Oates の "Them" (1969)。たしか同70年の全米図書賞受賞作だが、なかなかおもしろい。
 が、今回は前の続きで、同じく Oates 女史の "Expensive People" について補足しておこう。
 これは読みはじめてビックリ。偶然の一致というのはあるものだと思った。前々回、Paul Auster の "4321" に話を戻そうとしたところで中断。それきりにしていたら、なんとこの "Expensive People" も "4321" と同じくメタフィクション。しかも、あちらは自伝小説、こちらは回想小説ということで、内容的にもわりと似通っているからだ。
 Joyce Carol Oates を読もうと思ったのは、もうすぐ定年を迎えるぼくとしては、ここらでしっかり文学を勉強しなければ、と決意したからだ。Oates は毎年ノーベル賞候補に擬せられているのに、まだ1冊しか旧作を読んだことがないのも気になっていた。
 さて Paul Auster と Joyce Carol Oates、なんだか横綱同士の対決みたいだが、この勝負、明らかに Oates 女史の勝ちですな。"Expensive People" のほうが「必然性のあるメタフィクション」だからだ。
 むろん "4321" においても、それなりの必然性はある。青春という「いろいろな可能性を秘めた時代」をパラレルワールドとして描くアイデアそのものは悪くない。が、「4人のファーガソンがそれぞれ異なる人生観・世界観を有して内的・精神的に対立しているわけではない」。そうした「価値と価値の激突」がなければ、あれほどの紙幅を費やすまでもないだろう、と思ったので☆☆☆★★★。
 一方、"Expensive People" の場合、「現実と虚構の関係を深く掘り下げながら、俗悪な通念の浅薄さ、欺瞞を容赦なくあばき出し」、真実めかした虚偽が世にはばかるという「時代を超えた真理に到達」している。これはメタフィクションならではの成果である。ということで、☆☆☆☆。
 ふう、疲れた。ほかにもまだ書きたいことはあるが、馴れないタブレットで悪戦苦闘。おしまい。