ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Leila Slimani の “The Perfect Nanny”(2)と2018年ニューヨーク・タイムズ紙選ベスト5小説

 とても面白い本を読んでいるとき、過去記事の続きを書くのは面倒くさいものだ。もっか取り組んでいるのは、Orhan Pamuk の "The Museum of Innocence"(原作2008、英訳2009)。すこぶるつきのメロドラマだが、近代文化と古い伝統との衝突など、いろいろ考えさせられる点もあって目が離せない。ただ、なにしろ700ページを超える大冊だ。もうしばらく時間がかかりそう。
 というわけで表題作の話。(レビューにスターを付けてくださった brownsuga さん、ありがとうございます)。 

 これ、読み始めるまでミステリとは知らなかった。もし知っていたら後回しにしたかもしれない。ミステリはぼくにとって麻薬みたいなもの。昔のようにまた中毒になるのは、せいぜい後期高齢者なってからでいいと思っている。そこまで保てばの話ですが。

 そんな元ミステリ・マニアの目で見ると、本書でいちばん不満なのは、凄惨な犯行の引き金になった直接的な動機が不明のままである点だ。事件にいたる背景はよく書き込んであるのだけれど、詰めが甘い。というか、真相を藪の中にした理由がよくわからない。まさか、そのほうが「文学的」と作者が判断したはずもなかろうに。
 ミステリ以外の要素は、もっぱら「事件にいたる背景」のほうにある。それが「不幸な家庭生活、借金苦、孤独」というのは、ちと平凡すぎますな。また、犯人の「異常な一面を示す微妙なヒントが少しずつちりばめられる」のはいいとして、それなら結局、犯人は不幸な身の上でサイコパスになったことになる。いや、もともとサイコパスだったのだ、と解せるようなくだりもあり、どっちが真相なのかな。
 ぼくの感覚で言えば、サイコパスは「もともと」より、フツーの人が何かのきっかけでそうなるほうがコワい。そのきっかけがリアルであればあるほどコワい。いつか自分もそうなるかも、と思わされそうだからだ。
 その点、『羊たちの沈黙』は映画も原作もキモチわるいだけで、コワくはない。あのヒッチコック作品にしても、有名なシャワールームのシーンがなかったら興味半減だろう。どれだけ説得力のある引き金を提示できるか、そこに文学が生まれ、それが同時にすぐれたミステリともなる余地がありそうだ。
 というわけで、事件の真相不明の本書は「純文学としてもミステリとしても中途半端な読み物である」。これくらいの出来でゴンクール賞受賞作とは、ううむ、フランス文学のことはよくわかりませんが、ひょっとして低迷期に入っているのかもしれませんな。
 なお、本書はご存じのとおり、去年のニューヨーク・タイムズ紙選ベスト5小説のひとつである。今年は久しぶりにぜんぶ読む予定。以下、ほかの作品も同紙の掲載順にリストアップしておこう。 

 追記:4月2日、"The Great Blievers" のレビューを追加しました。


 

Tommy Orange の “There There”(1)

 Tommy Orange の "There There"(2018)を読了。周知のとおり、これは昨年のニューヨーク・タイムズ紙選ベスト5小説のひとつである。また P Prize.com の予想によれば、3月5日現在、今年のピューリッツァー賞レースでも、Rachel Kushner の "Mars Room"(2018 ☆☆☆★)に次ぐ有力候補に挙げられている。さっそくレビューを書いておこう。 

There There: A novel (English Edition)

There There: A novel (English Edition)

 

 [☆☆☆☆] この着想はすばらしい! どんなに古びたテーマでも工夫次第でまだまだ大いに発展の余地がある、ということを実証したような作品である。プロローグで紹介されるのは、アメリカ先住民の虐殺と迫害、差別の歴史であり、彼らの子孫にとっての「そこ」、現代の都会にはもはや「そこ」、帰る土地がないという事実。そんな一般常識が背景となる本編で先住民たちが登場したとき、ステロタイプ以外にどんな物語があるというのだ。ところが、その予想はもののみごとに裏切られる。まず叙述スタイルがいい。オークランドを舞台に、先住民の血を引く多数の人物が輪舞形式で登場、つぎつぎに視点と話法が変化するうち、アルコール依存症やドラッグ、DV、親子の断絶など、祖先のいかんを問わずアメリ現代社会のかかえる病巣が、しかしあくまで先住民の歴史と伝統に沿って描かれる。構成の妙も光る。連作短編ふうにエピソードが集積されるなか、当初は無関係に思えた人物たちでさえ次第に結びつき、やがて一同、アスレチックスの本拠地球場でもよおされる全部族の大規模集会に参加。祭礼は民族の歴史と文化を象徴する宗教行事であり、連帯とアイデンティティを再確認する場である。ゆえにありがたいお祭りがはじまるのかと思いきや、なんと危険な冒険アクションでクライマックスを迎えるとは! さらにまた、現代人の「そこ」、魂の奥底にはいまなお「そこ」、帰るべき原風景があるという結末もけっして陳腐ではない。「文化とは人間の生きかたである」とはT・S・エリオットの至言だが、本書は「文化とは人間の死にかたである」とも示唆しているからだ。斬新なアイデアの勝利である。

Umberto Eco の “Baudolino”(1)

 Umberto Eco の第四作 "Baudolino"(原作2000、英訳2001)を読了。さっそくレビューを書いておこう。 

Baudolino (English Edition)

Baudolino (English Edition)

 

[☆☆☆☆★] 古来、人間にはユートピア願望があり、そこから数々の神話や伝説が生まれた。十字軍の時代、ネストリウス派キリスト教の司祭ヨハネイスラム教徒との戦いに勝利し、東方に理想の王国を建設したという伝説もそのひとつであり、本書は、この司祭ヨハネ伝説を下地にした冒険ファンタジーである。美女や怪獣も登場する歴史ロマン、戦争スペクタクル、さらには密室ミステリなど多彩な要素を盛りこんだ豪華絢爛、重厚な大河ドラマだが、なにより特筆すべきは、主役たちが終始一貫、虚偽と欺瞞を自覚しながらフィクションを生みだすうちにそのとりことなり、ついには虚偽を虚偽ではなく真理と信じて追求しつづける点だろう。ウソから出たまこと、である。主人公は、農家の生まれながら神聖ローマ帝国の皇帝フリードリヒ1世の養子となった騎士バウドリーノ。という設定からしていかにもウソくさく、彼が物語る半生記にも荒唐無稽な話がいり混じり、その聞き手、東ローマ帝国の歴史家ニケタス・コニアテスも時には眉につばするほど。しかしバウドリーノの、司祭ヨハネの王国に到達せんとする情熱だけは疑いようがない。ニケタスは実在の人物であり、ウンベルト・エーコは豊富な知識を駆使して史実にフィクションをからませながらこの小説を創作したものと思われる。その過程がそっくりそのまま小説世界に反映されている点がおもしろい。つまり虚実は紙一重、その一重の領域を行きかううちにバウドリーノたちはユートピア願望に取り憑かれていく。夢は追いつづけるところに価値がある、夢は夢のままであってほしい、いや、理想や真理はあくまで存在しなければならぬ。そんな自問自答に読者を駆りたてる極上の文芸エンタテインメント巨編である。

Evelyn Waugh の “Sword of Honour”(3)

 前回はこんな話だった。ぼくが最近読んだ海外文学の新作は五冊。どれもそれなりに面白いけれど、表題の『名誉の剣』三部作とくらべると、どれもかなり物足りない。(スターを付けてくださった shinread さん、brownsuga さん、ありがとうございます)。
 なぜか。流れからして当然、それが今回のテーマになるはずだが、五冊ともまだレビューを書いただけ。ここで一気に比較論を述べてしまうと、新作のほうの落ち穂拾いがしにくくなる。きょうは『名誉の剣』に絞って駄文を綴ることにしよう。
 まず、ぼくが実際に読んだのは Penguin Classics 版だが、この巻頭には、Angus Calder という人が書いた懇切丁寧とおぼしい序論が載っている。「おぼしい」というのはその分量から推測したもので、確信はない。ぼくは面倒くさいので素通りしてしまったが、本書を研究する人ならたぶん必読だろう。なにしろ Penguin Classics ですからね。
 それでも、イーヴリン・ウォー自身の序文は読みました。これは仕方がない。冒頭の見開き左ページにあるのだから、いやでも目に入ってしまう。
 で、そのどこにもテーマらしきものは書かれていない。当たり前だ。自分からネタを割る作家なんているわけがない。それは読者がお考えください、ということなのだろうが、そのとき上の序論は大いに役立つのでは、と思うのです。
 ひるがえって、ぼくは研究者でもなんでもない、ただの〈文学老人〉なので、あくまで自分の興味に沿って本書を読んでいった。その途中経過を「雑感」にまとめ、さて、レビューを書こうとしたとき、ふとひらめいた。これはイーヴリン・ウォー自身、おそらく意図していなかったことかもしれないが、あるきわめて今日的な問題を提出した作品である、とも言えるのではなかろうか。つまり、「一朝有事の際、人はいかに行動すべきなのか」。
 ここから、ちょっとキナくさい話になります。ぼくはふだん小説ばかり読んでいて世間のことにはまったく疎いのだけれど、有事の際に一般市民が取るべき行動のあり方について書かれた防衛論はあるのでしょうか。戦争を防ぐにはどうしたらいいか、というものならケンケンガクガク、議論百出だろうと想像しますが、いざ戦争が起きたら、というところまで踏み込んだものはどうも少ないような気がする。いや、そんな事態を想定すること自体が危険なのだ、という意見さえありそうですね。
 ともあれ、万一戦争が起きたら戦うのは軍人だけ、ということはありえない。非戦闘員もなんらかのかたちで巻き込まれるのは言うまでもない。問題は、その関与の仕方である。積極的に協力するのか反対するのか、はたまた国外逃亡でも図るのか。
 昨今の移民問題からして、国内で市街戦が発生する可能性もなきにしもあらず、とぼくは最悪の事態を危惧している。そのときぼくは自分のため、家族のためにどう動くのだろうか。と、いまは他人ごとのように書けるけれど、いざというときの覚悟だけは決めておいたほうがいい。

 いかん、柄にもなく、ヤバイ話をしてしまった。なにしろ、『名誉の剣』にはこんな一節があのだ。'Is there any place that is free from evil? It is too simple to say that only the Nazis wanted war. .... It seems to me there was a will to war, a death wish, everywhere. Even good men thought their private honour would be satisfied by war. They could assert their manhood by killing and being killed. They would accept hardships in recompense for having been selfish and lazy. Danger justified privilege. I knew Italians ― not very many perhaps ― who felt this. Were there none in England?' 'God forgive me,' said Guy. 'I was one of them.'(pp. 655-656)
 主人公ガイ・クラウチバックと、彼がユーゴスラヴィアで出会ったユダヤ人難民の女性との会話である。本書のタイトル "Sword of Honour" に直結するくだりだが、一朝有事の際、人は好むと好まざるとにかかわらず、いつかどこかで手を汚すことになるだろう。There is not any place that is free from evil. ということだけは覚悟しておくべきだ。
(写真は、愛媛県宇和島市和霊神社。去年の秋、帰省中に撮影)

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Evelyn Waugh の “Sword of Honour”(2)

 やっと(2)にこぎ着けた。ほんとうはもっと早く落ち穂拾いをするつもりだったのだけど、このところ、本書をダラダラ読んでいるうちに届いた新刊を片づけるのに追われてしまった。(本書のレビューにスターを付けてくださった kt-888さん、brownsugaさん、遅ればせながら、ありがとうございます)。

 とはいえ、ケガの功名もある。はからずも現代文学との比較ができたからだ。といっても、べつに大したことではない。最近の小説はどれも、それなりに面白いのだけれど、この『名誉の剣』三部作とくらべると、どれもかなり物足りない。去年のブッカー賞受賞作や候補作についても、それどころか、ここ数年の作品についてもおそらく同様だろう。
 数年? 気になったので読書記録を検索したところ、ぼくがほぼリアルタイムで読んだ現代文学で、最高点の☆☆☆☆★★を進呈した作品は二冊だけであることが判明した。Irene Nemirovsky の "Suite Francaise"(原作2004、英訳2006)と、Roberto Bolano の "2666"(原作2004、英訳2008)である。 

 

 "2666" を読んだのが2009年のちょうど今ごろだから(同書は2008年の全米批評家協会賞受賞作で、今ごろはまだ候補作)、この十年間、古典や旧作を除くと最高点は皆無。われながら驚いてしまった。さほどにあちらの現代文学は不毛なのだろうか。まあきっと、それほどぼくの趣味が海外文学の主流からかけ離れているってことなんでしょうね。

 話を『名誉の剣』に戻そう。『新潮世界文学辞典』によると、「第二次大戦後最高のイギリス小説という評価もある」とのこと。誰の評価か知りませんが、わが意を得たり! ぼくも昂奮のあまり、「世界文学史上にのこる傑作」などと筆が滑ってしまった(キーを打ちそこねた?)。
 だけど、イーヴリン・ウォー、ぼくの学生時代も話題にする人は、周囲にはほとんどいませんでしたね。当時はたしか20世紀文学といえば、D・H・ロレンスグレアム・グリーン、フォークナー、ヘミングウェイあたりのファンが多く、ミステリばかり読んでいたぼくは、もっとまじめなものを読め、と亡き某先生によく叱られたものだ。そのたびに、ケッ、純文学なんて、と心の中で反抗しつつ、じつはやっぱり肩身が狭かった。
 そんなコンプレックスから、21世紀になってようやく文学の勉強を(自己流で)開始。イーヴリン・ウォーもその一環だった。ここで、レビューのないものは急遽採点、読書メモで代用しながら、読んだ順に振り返ってみよう。
"A Handful of Dust"(1934 ☆☆☆☆★)「現代人の虚妄と滑稽」。 

A Handful of Dust (Penguin Modern Classics) (English Edition)

A Handful of Dust (Penguin Modern Classics) (English Edition)

 

 "The Loved One"(1948 ☆☆☆☆)「ブラック・ユーモアたっぷり」。 

The Loved One: An Anglo-American Tragedy (Twentieth Century Classics)

The Loved One: An Anglo-American Tragedy (Twentieth Century Classics)

 

 "Brideshead Revisited"(1945 ☆☆☆☆★)「貴族の没落と青春のおわり」。 

"The Ordeal of Gilbert Pinfold"(1957 ☆☆☆☆)「作家の幻聴記」。 

The Ordeal of Gilbert Pinfold: A Conversation Piece (Penguin Modern Classics) (English Edition)
 

 "Decline and Fall"(1928 ☆☆☆☆) 

"Sword of Honour"(1965 ☆☆☆☆★★) 

 本書が刊行された当時、ブッカー賞はまだ創設されていなかった。その年の作品にどんなものがあるか知らないが、もし設立されていたら、これは間違いなくブッちぎりで受賞していたことでしょうね。そう、この「ブッちぎり」という受賞作が少なくとも今世紀は、ことによると創設以来、皆無かもしれない。もしそうだとしたら、なぜかな。

 そのあたり、ぼくには、ある飛躍に満ちた推論があるのだけれど、それを述べると草葉の陰から、いい加減なことを言うな、という某先生のお叱りの声が飛んできそうだ。
 そうそう、いま思い出したが、またべつの亡き某先生が、イーヴリン・ウォーのことをチラっとお話になっていた。へえ、"Decline and Fall" を読んだのかい、どうだった、くらいのことだったけれど。今回のぼくのレビュー、おふたりの先生が読まれたら、どう思われたことだろう。だからお前はダメなんだ、と最初の先生ならおっしゃりそうですね。(この項つづく)

Sigrid Nunez の “The Friend”(1)

 昨年の全米図書賞受賞作、Sigrid Nunez の "The Friend"(2018)を読了。さっそくレビューを書いておこう。(ペイパーバック版の表紙はきょう現在、アップ不可能。可能になり次第アップします)。 

The Friend: A Novel

The Friend: A Novel

 

[☆☆☆★★★] 親友が自殺したとき、あるいは死を迎えようとしているとき、あとにのこった自分はなにを思い、どう行動するのだろうか。この個人的な問題が本書では文学論にまで発展する。なぜ、なにを、いかに書くのか。それは結局、人生いかに生きるべきかという問いでもあり、そこで最初の疑問に戻る。本書は、そういう文学と人生にかんする自問自答を短い連作スケッチふうにまとめ、ユーモアと情感をこめてフィクション化した作品である。一部メタフィクションに近づく箇所もあるなど、技巧的にもすぐれている。タイトルとちがって複数の友人が登場。主役は、ひとりと一匹。中年の女流作家が若いころから指導を受けてきた親友の作家が自殺。彼女は悲嘆にくれ、執筆にも大学での創作指導にも支障をきたす一方、親友の愛犬だった高齢のグレートデンを引きとり、マンションの規約に反して飼うことに。生前の親友との交流が去来するなか、リルケヴァージニア・ウルフクッツェーなどの著作を引用しながら、文学、自殺、そして動物とのふれあいについて思いをめぐらせる。親友に先だたれた悲しみと、死期の近い老犬におぼえる愛着。ひとつまちがえれば感傷過多で平凡なヒーリング小説になるところ、作者は必然性のある文学論を展開し、テーマに直結した興味ぶかい逸話を多数紹介することで感情を抑制。その抑制からふとこぼれ出る友人たち、亡き作家と犬への愛情に胸を打たれる。知的かつハートウォーミングな佳篇である。

Patrick Chamoiseau の “Slave Old Man”(1)

 きのう、今年の全米批評家協会賞(対象は昨年の作品)の最終候補作、Patrick Chamoiseau の "Slave Old Man" を読了。Patrick Chamoiseau は1992年に "Texaco" という作品でゴンクール賞を受賞したこともある作家で、カリブ海マルティニーク島出身。本書は1997年にフランス語とクレオール語で書かれた原作の、昨年刊行された英訳版である。さっそくレビューを書いておこう。 

Slave Old Man: A Novel

Slave Old Man: A Novel

 

 [☆☆☆★] 19世紀、カリブ海の島の農園から年老いた黒人奴隷が逃亡。そのあとをまず猛犬が、ついで農園主も追跡。とくれば、その後の展開も結末もおおよそ見当がつくはずだが、読めば読むほど想定外。本書は筋らしい筋のない、物語性をまったく度外視した作品である。老人はむろん自由を求めるものの、それ以上に彼は密林の奥へ分けいることで、みずからの存在の根底、種の根源へと突き進んでいく。目の前に現われるのは、パワフルな詩的イマジネーションによって構築された祖先の住む幻想世界。老人は無数の祖先の声を聞き、その霊と一体化することで現存の秩序から脱却、アイデンティティを確立しようとする。その幻想世界は追跡者にも影響を与え、道に迷った農園主は恥辱を自覚し、孤独と苦悩のなかから再生。老人に追いついた番犬も霊的な存在と接触することで安らぎを得る。これは太古の森にのこる岩と人骨から想像した物語とのことだが、なるほど芸術性の高い斬新な視覚イメージに満ちているものの、人間ドラマが欠落しているため深い感動は得られない。ドラマとして陳腐な筋だてになるのを避け、想像力を駆使して芸術の極北を目ざしたということだろうか。