ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Sarah Waters の “Affinity”(2)と既読作品一覧

 ついにコロナか、それともふつうの風邪か、とにかく発熱。おまけに喉がやけに痛く、調べるとオミクロン株の症状にそっくり。実際何度あるのかはコワくて測っていない。きょうは何日かぶりに起きていられる状態なので(たぶん発症4日目)、この記事を書いている。
 寝床のなかでは Orhan Pamuk の "Snow"(2002)を読んでいる。べつに無理をしなくてもいいのだけど、寝込む前のくだりがとても面白く、つづきが気になる。読んでいてしばらくすると目がまわりはじめ、これがこの世で最後の本か、などと考えたりしているうちに眠くなる。
 同書が面白いのは、豪雪のさなか、トルコの田舎町を訪れた主人公の詩人がなにやらとんでもない事件に巻き込まれそうだ、という予感がするからだ。娯楽ミステリの序盤とおなじノリで、そういえば Pamuk の作品はどれも多かれ少なかれミステリ味がある。
 ところが、邦訳が推理文庫に収められ、れっきとしたミステリであるはずの表題作のほうは、読みはじめたときからピンとこなかった。まず、ミステリというからには蠱惑的な謎の事件が起こるはずなのに、その事件に降霊術がからんでいると知り、白けてしまった。
  もちろん、降霊術うんぬんは目くらましで、じつは、という設定になっている。しかしそれが降霊術というだけで目くらまし効果が薄れてしまい、どうせなにか裏があるんだろうと思ってしまう。このとき、降霊術はすべてトリックというのは現代の常識であり、本書は19世紀ヴィクトリア朝時代の話なのだから、現代の尺度で測ってはいけない、という理屈も成り立つわけだが、それはタテマエ。なんだ、降霊術か、というのがホンネだろう。
 それから、目くらましの裏に隠されている意外な真相がべつに意外でもなかった。ネタを割らない程度に事件の核心にかかわるくだりを拾ってみると、.... we will all fly to someone, we will return to that piece of shining matter from which our souls were torn with another, two halves of the same. It may be that the husband your sister has now has that other soul, that has the same affinity with her soul ....(p.210)I was only seeking you out, as you were seeking me. You were seeking me, your own affinity. .... We are the same, you and me. We have been cut, two halves, from the same piece of shining matter.(p.275)
 ぼくはこうした一節を読み、反射的にロレンスのメルヴィル論を思い出した。「愛は完全であってはならない。愛には完全な瞬間があってしかるべきだが、それと同時に、茨の茂る荒野がなければならない。実際、現実でもそうなっている。『完全な』関係などというものは有ってはならない。すべての関係には、それぞれの魂の独立のために不可欠な、絶対的な限界、絶対的な制約があるべきなのだ。本当に完全な関係というのは、相手に広大な未知の領域を残しておく者にとっての関係なのだ」。(『アメリカ古典文学研究』大西直樹訳)

 ロレンスの感動的なことばとくらべると、上の "Affinity" からの引用部分はなんと感傷的に聞こえることか。そこには一種の胡散くささえ感じとれる。とそんな感想が「まさか結末につながろうとはとんと気づかなかった」。気づかなかったが、一瞬でも胡散くさく思っただけに、意外な結末ではなかった。
 ともあれ、これで Sarah Waters は4冊目。初めて読んだのは2006年のブッカー賞最終候補作 "The Night Watch" で、あれはほんとうに面白かった。が、再読したいとは思わない。重スミのアラさがしばかりしそうな気がするからだ。たぶん未読の旧作を読むこともないだろう。
 というわけで以下、ささやかながら、Sarah Waters の既読作品一覧をアップしておこう。

1. Affinity(1999 ☆☆☆★★)

2. Fingersmith(2002 ☆☆☆★★★)

3. The Night Watch(2006 ☆☆☆☆)

4. The Little Stranger(2009 ☆☆☆)

 

Virginia Woolf の  “Mrs Dalloway”(1)

 きのう、やっと Vriginia Woolf の "Mrs Dalloway"(1925)を読了。さっそくレビューを書いておこう。

Mrs Dalloway

Mrs Dalloway

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[☆☆☆☆★] ヴァージニア・ウルフ版『戦争と平和』といえるかもしれない。一方に、第一次大戦の災禍を体現したかのような青年セプティマスの自殺があり、他方、その知らせを自宅のパーティ会場で聞いた中年女性ダロウェイ夫人の、戦争とはほとんど無縁の半生が一日の推移とともに描かれる。夫人と青年の直接的な関係も皆無。つまり、ここでは本来複雑にからみあうはずの戦争と平和がべつべつの要素として存在する。それどころか一事が万事、本書には人生の断片しか存在しない。ダロウェイ夫人をはじめ、夫人と大戦後ひさしぶりに再会した元カレのピーター、亡き戦友を思うセプティマス、その錯乱にうろたえる彼の妻など、いろいろな人物がつぎつぎに登場してひとつのエピソードを形成するものの、各話ともそれぞれ独立した輪舞の一環にすぎず、各人の意識の流れのなかで結びつき離れていく。話法が目まぐるしく変化し、直接・間接・描出という三用法が同一の場面で混在。詩的ないし美的連想により情景と心理が融合しては分離。それは「ものごとが一体化する瞬間」の連続であり、「魚のように深海に生息する人間の魂が突然、海面に浮上する」一瞬の連続でもある。こうした意識の流れが人生の本質であるのなら、人生とは、生も死も愛もすべて、しょせん没倫理的な美の断片にしかすぎない。いかに生きるべきか、という理念にもとづく永続的な流れではなく、いかに生きているか、という観照にもとづく瞬間的な流れとしての人生。戦争も自殺もひとつのエピソードでしかないとは、恐るべき平和、恐るべき絶望とニヒリズムである。

Orhan Pamuk の “The Black Book”(3)

 相変わらずボチボチだが "Mrs Dalloway"(1925)を読んでいる。タイトルどおり、主人公はいちおう Mrs Dalloway と思われる。いちおう、というのは、Mrs Dalloway は前回ふれた元カレ Peter Walsh との再会以後、全体のほぼ4分の1ほども登場しないからだ。
 その代わり、これまたいちおう周辺人物が何人も顔を出す。それがじつは脇役とも思えない人物ぞろいで、おのおのまず、彼らのおかれた状況や場面などの客観描写ではじまり、そこにやがて発言や心中の言葉がまじり、最後はまぎれもない心理描写。これが Virginia Woolf 流の意識の流れというやつだろうか。
 このパターンはじつは冒頭から。1923年かな、第一次大戦の余韻が残る6月のある日、Mrs Dalloway は散歩に出かける。当然、彼女の心理が描かれるものと思いきや、それはときどき織りまぜられる程度。リレー式というか輪舞形式というか、通りにいる人物の心理がつぎつぎに紹介される。これを読んでいるとき、そういえば去年のブッカー賞受賞作、Damon Galgut の "The Promise" も同様のスタイルだったな、と思い出した。あれは Vrginia Woolf の影響だったのか。

 ともあれ、Mrs Dalloway はこの日の夜、自宅でパーティを企画している。そこに出席する人びとの事前説明という意味もあって、上のような輪舞形式で各人が各人の意識の流れのなかで登場するのかもしれない。
 それが面白いか、というと、さして面白くはない。ただ、こんなスタイルは1925年当時としては非常に斬新なものだったのではないか、という気がする。次作の "To the Lighthouse"(1927)のほうが、より洗練された究極の意識の流れを描いているとは思うけれど、本書における試みもなかなかのものである。
 閑話休題。表題作に移ろう。「なぜ Orhan Pamuk はこれほどまでにアイデンティティの問題にこだわるのか」。この謎を解くヒントと思えるくだりを拾ってみると、No one in this country can ever be himself. To live in an oppressed, defeated country is to be someone else.(p.390)"Once upon a time," began Galip, "there lived in our city a Prince who discovered that the most important question in life was whether to be, or not to be, oneself."(p.416)
 そして後者の Prince が登場する劇中劇の物語では、How to be oneself? Only by solving this mystery can we hope to save our people from destruction, enslavement, and defeat.(p.419)... all peoples who are unable to be themselves, all civilizations that imitate other civilizations, all those nations who find happiness in other people's stories were doomed to be crushed, destroyed, and forgotten.(p.429)Seven years after his [the Prince's] demise, the throne .... went to his older brother, .... and it was his [the brother's] rule that the Ottoman Empire, having entered the First World War, collapsed.(p.437)
 ほかの箇所も参考にしながら、ぼくはこうしたくだりを次のようにまとめてみた。「新旧東西、異文化の交差する街イスタンブール。本書の劇中劇にあるとおり、第一次大戦後のオスマン帝国解体以来、混沌につぐ混沌に満ちたトルコ。『アイデンティティを保持しなければ、都市も国家も民族も消滅する』。こうした彼の街、彼の国ならではの実存の不安こそ、じつは本書の真の主旋律なのではあるまいか」。
 こうなると、本書では物語性が度外視されている、だから面白くない、といった単純な評価は的はずれ。いままで読んだ Orhan Pamuk の作品では、なんといっても "My Name Is Red"(1998)が抜群に面白かったけれど(☆☆☆☆★)、

濃密さ、コア度という点では本書のほうがまさっているような気がする。文学史にのこる傑作である。

(下は、この記事を書きながら聴いていたCD。ピノック盤を愛聴している曲だが、きょう久しぶりに聴いてみると、ガーディナー盤もとてもよかった)

 

Orhan Pamuk の “The Black Book”(2)

 Virginia Woolf の "Mrs Dalloway"(1925)をボチボチ読んでいる。年始にぼんやり立てた予定より1ヵ月遅れだ。Woolf はちょうど1年前に取り組んだ "To the Lighthouse"(1927 ☆☆☆☆★)が初見で、今回が2冊目。

 同書を読んだとき、なにしろ Virginia Woolf は英文学史上でもキラ星のような作家のひとりなので、どんな経歴だったのか調べたところ、どうやら "Mrs Dalloway" がいちばんの代表作らしいと知った。以来ずっと気になっていた。
 テキストは Penguin Classics。ところどころ注の番号がふってあり、面倒くさいので大半は無視しているのだけど、ときたま、どうしても後注を読まないと意味不明のくだりがある。Mrs Dalloway と久しぶりに再会した元カレの Peter Walsh が夫人の屋敷を出たあと、St. Margaret's 寺院の鐘の音を耳にした場面(注33)などだ。Mrs Dalloway を思う Peter の心理と、鐘の音という物理現象が詩的連想で溶けまじって一体化。これが裏表紙にある this book's celebrated stream of consciousness(New Yorker 誌)の一例なのかどうか、英文科の先生におうかがいしたいところだ。
 まだ序盤のせいか、物語性はほとんどない。上の場面をはじめ、細部の描写に異様なこだわりがあり、鋭敏な知性と詩的感受性の発露かもしれない。
 物語性の欠如といえば、表題作も相当なものだった。

 大筋としては、イスタンブールに住む弁護士 Galip の妻 Rüya がある日突然、理由も告げずに家出。それと同時に、いとこの有名な新聞記者 Celal も行方不明とわかり、Galip はふたりの居所の手がかりをつかむべく、Celal の書いた膨大な量のコラムを読みかえす。ボスポラス海峡が干上がった話など、最初のうちは面白かった。
 ところが、やがてどのコラム、どの逸話も似たり寄ったりで、テーマもひとつに集約されるようになる。Turks no longer wanted to be Turks, they wanted to be something else altogether ....(p.61)"We've both become different people. .... Who am I, who am I, who am I?"(p.149).... how easy it was for someone else to assume a man's identity ....(p.171).... something .... would spring up suddenly from the very depths of my soul to intone the same words over and over: I must be myself, I must be myself, I must be myself.(p.180)I know how hard it is for a person to be himself, ....(p.202)
 例によって不得要領の引用だが、登場人物がだれで、どんな状況での発言かといった知識はむしろ不要。「どのコラムも同工異曲」。「アイデンティティの変容と確立をいかに表現するか、その一点に絞って無数とも思えるエピソードが積み重ねられていく」。
 つまり金太郎飴のようなもので、もちろん多少の顔のちがいはあるけれど、実際は皆無にひとしい。こうなると物語性もへったくれもなく、その後、痴情のもつれがあったり殺人事件が起きたりするものの、「アイデンティティの変容と確立」というテーマは終始一貫、変わらない。
 なぜ Orhan Pamuk は、これほどまでにアイデンティティの問題にこだわるのか。そう思いつつ、数ある小説の構成要素のなかでも物語性をかなり重視するぼくは、さすがに途中でヘコたれてしまった。(この項つづく)

(下は、この記事を書きながら聴いていたCD)

 

Sarah Waters の “Affinity”(1)

 きのう、Sarah Waters の "Affinity"(1999)を読了。さっそくレビューを書いておこう。

Affinity (Virago V)

Affinity (Virago V)

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[☆☆☆★★] タイトルはいわゆるソウルメイトの意。書中でそう説明されたとき、はたして心の友は存在しうるのか、と思ったものだ。しかしその疑問が、まさか結末につながろうとは気づかなかった。よくできた歴史ミステリである。舞台は19世紀後半、ヴィクトリア朝時代のロンドンの上流家庭と女子刑務所。孤独な娘マーガレットが刑務所を再三慰問するうち、服役中の霊媒師セリーナと親交を結ぶようになる。その経緯をしるしたマーガレットの手記と、セリーナが二年前に起こした事件の記録が交互に進む。ストーリーテリングと人物描写は堅実で、降霊術や超常現象など怪奇小説ふうの逸話もあるものの、途中、山場が少なく盛りあがらない。それがソウルメイトのくだりになったとたん一気に加速。終幕直前までの退屈な流れが、じつは急展開の布石となっている。「愛は完全であってはならない」と宣しながらも愛の実証を生涯つかもうとしつづけたロレンスの諸作にくらべれば、本書の愛の構造はすこぶる単純で、ヒースクリフの宇宙的激情もないがゆえに愛そのものも平凡。とそんな難癖をつけるのは筋ちがい。これはあくまで娯楽小説と割り切って読むべきだろう。最後にツイストをよく効かせた佳篇である。

Laird Hunt の “Zorrie”(2)

 きのうは思いのほか時間が取れ、Sarah Waters の "Affinity"(1999)を100ページほど進むことができた。おかげで4部構成の第3部まで到達(後記:この記事を書いた翌日、5部構成と判明)。やっと目鼻がついてきた。
 この邦訳はいま調べると、2003年と2004年の国内のミステリ・ファン投票でそれぞれ1位を獲得している。2年にまたがったのは、対象期間のちがいによるものだろう。
 それほどの人気作なのだが、ぼくにはいまのところ、その理由がどうもピンとこない。服役中の霊媒師 Selina Dawes の行動記録と、刑務所を再三訪れ、Selina に関心を寄せる娘 Margaret Prior の手記が、1872年と1874年の2年間隔で並行して進み、ふたりの心が次第に通じあうという流れで、なにも全体を4分割しなければならないほど大きな場面変化があるわけではない(後記:5分割でした)。Selina の服役につながった降霊術がらみの事件にしても、オカルトっぽいだけで、べつにどうってことはない。裁判のようすもリーガル・サスペンスらしい盛り上がりに欠ける。これならいっそ、なんだか近いうちに、大昔翻訳で読んで以来とんと縁のない19世紀の古典に取り組んでみたくなってきた。
 とそんな感想をいだくのは、ぼくがもはやミステリ・ファンではない証しかもしれない。それに最大の山場はまだこれからのようだ。第3部のおわりでタイトルの affinity にかんする記述があり、Selina と Margaret の関係が第4部で劇的に変化しそう。きっとそこに人気のゆえんもあるのだろう。
 閑話休題。ずいぶん間があいてしまったが、表題作は去年の全米図書賞の発表直前、下馬評で1番人気と知り大急ぎで読んだものである。

 しかし結果は、あえなく落選。当てがはずれ、すっかり気が抜けてしまい、みごと栄冠に輝いた "Hell of a Book" もその後入手したものの、いまだに読む気がしない。現代の作品には期待を裏切られることが多いからだ。
 これはざっとした印象にすぎないのだが、最近の全米図書賞の受賞作は、人種差別やLGBT、マイノリティといったトピカルな題材を扱ったもの、あるいは、メタフィクションのように技巧的に創意工夫を凝らしたものが多いような気がする。ところが、"Zorrie" はそのどちらでもない。ずばり、それが敗因だろう。
 Zorrie は20世紀なかば、アメリカ中西部の田舎町で生まれ、「幼いころに両親を亡くし、厳格な伯母に育てられ」、「工場勤務ののち農家に嫁ぎ、子宝には恵まれず、夫の死後農場経営に着手」といった経歴の持ち主で、ただもう「勤勉、誠実、純真そのもの」。黙々と働く女性である。未亡人となってから浮いた話もなくはないけれど、結ばれることもなく消えてしまう。ちょっとちがうが、ぼくはチェーホフの『かわいい女』を思い出した。
 ご存じのように、オーレンカは3人の男と出会い、それぞれの相手に献身的に尽くす「かわいい女」である。テレビであれこれご意見を述べる才媛才女とは、少なくともイメージ的には正反対。同様に、Zorrie も政治や経済などトピカルな話題はいっさい口にせず、ひたすらまじめに働きつづける。SNSやらツイッターやらを通じて、だれもが全員コメンテーターとなる時代にあっても、じつはサイレント・マジョリティは存在するのではないか。そう思わせるところに Zorrie というヒロインの設定意義があるのかもしれない。
 ともあれ、そんな人物を描くのに、メタフィクションのような超絶技巧がいっさい不要であることはいうまでもない。ここでは「あざとい小説技法は皆無」。「折々の喜びと悲しみ、悩み、惑いが抑制された筆致で淡々と綴られていく」。
 たしかに伝統的、定石的な手法ではある。テーマも斬新なものではない。こんなふうに自分の人生をまっとうした人間がいた。ただそれだけの話ともいえる。しかし読後、それがどうした、それでいいではないか、という気がすることもたしかだ。政治問題であふれ、華やかな技巧が目につくアメリ現代文学にあって、「干天の慈雨とはいわないまでも、一陣の涼風を感じさせる好篇である」。

(下は、この記事を書きながら聴いていたCD。こんな楽しい曲をたくさん作ったクープランは、よほど幸せな人生を送ったひとにちがいない、と思って調べると、彼は若いときから太陽王ルイ14世のサロンで活躍した宮廷礼拝堂つきオルガン奏者とのことだった)

Francois Couperin Edition

 

Sarah Waters の “Fingersmith”(2)

 年明けから諸般の事情で冬眠中だったが、そろそろ頭を働かさないとボケがひどくなってしまう。数日前から Saraha Waters の "Affinity"(1999)をボチボチ読んでいる。なかなか面白い。
 これは周知のとおり既訳もあり、版元はあの推理文庫。だからたぶんミステリなんだろうと思い、いままでずっと敬遠してきた。ミステリはぼくの昔の恋人なので、なにかのきっかけで、いつまた焼けぼっくいに火がつかないともかぎらない。そうなると、しんどいながら守っている純文学路線が一気に消滅してしまう恐れがある。事実、寝床のなかでは清張ミステリを再読している。
 それが昨年11月、表題作を読んだときから、近いうちに "Affinity" も、と決めていた。実際手に取ってみると、なるほどミステリにはちがいないんだろうけど、事件らしい事件はまだ起こっていない。それなのにちょっと面白く感じられるのは、服役中の霊媒師 Selina Dawes がどんな犯罪をおかしたのか気になるから。1872年の Selina 自身の行動記録と、2年後に刑務所を訪れた Margaret Prior の手記が並行して進むうちに、犯罪の実態が明らかになるという流れのようだ。
 ただいまのところ、すごく面白い、とまではいえない。きっと冤罪なんだろうけど、どうやら降霊術がからんでいるらしく、べつにたいした事件でもなさそうだ。それをストーリー・テリングで保たせているのが本書の売りなのかも。どうでしょうか。
 その点、表題作で描かれた事件のほうは、途中、あっと驚くどんでん返しがあり、「当初単純に思えた犯罪が複雑な様相を呈する」展開がとても楽しかった。

 アクション・シーンがふんだんにあり、「淫靡な世界や禁断の愛もかいま見せるあたり、まことにサービス精神旺盛。これはすぐれた文芸娯楽小説である」。こちらを支えていたのもストーリー・テリングで、人物描写とあわせ、なんとなくディケンズを思い出した。
 といっても、ディケンズは大昔、翻訳で『ディヴィッド・コパーフィールド』と『オリヴァー・ツイスト』を読んだきり、とんとごぶさたしている。主な作品はペイパーバック版で書棚に陳列してあるけれど、どれも大作で文字どおり積ん読の山。それなのに、あ、これはディケンズ、とひらめいたのは自分でもフシギだ。
 それがケガの功名というか、ネットで検索したところ、こんな記事を発見した。https://www.nytimes.com/2015/10/16/t-magazine/my-10-favorite-books-sarah-waters.html
 そのなかで Saraha Waters は "Great Expectations" をいちばんに挙げ、I admire all of Dickens's novels, but this story of class, guilt, shame and desire is the one that's affected me most. It often pops up in my own writing, in ways I never expect. とコメントしている。これをもとにデッチあげたのが上のレビューというわけだ。
 そのときディケンズとの比較をぼんやり考えているうちに、本書の限界も見えてきた。これは周知のとおり、2002年のブッカー賞およびオレンジ賞(現女性小説賞)最終候補作だったのだけど、ブッカー賞は Yann Martel の "Life of Pie"(☆☆☆☆★)、オレンジ賞のほうは Ann Patchet の "Bel Canto"(☆☆☆★★★)にそれぞれさらわれてしまった。

 "Fingersmith" の場合、たしかにサービス精神は旺盛なのだけれど、描かれた犯罪から人間の内面や善悪の問題へと発展しない憾みがある。そのあたり、ぼくにはちともの足りなかった。栄冠に輝かなかったのも、むべなるかなという気がします。

(年始から作曲家のアルファベット順に古楽を聴きはじめ、きょうは  Charpantier  の番なのだが、いま聴いているCDをなぜかアップできない。下は、ゆうべ聴いた William Byrd。とりわけ、3声のミサ曲の美しさは筆舌に尽くしがたい)

Byrd:Three Masses

Byrd:Three Masses

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