ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Knut Hamsun の “Hunger”(2)

 ブッカー賞のロングリスト発表が目前に迫ってきた(ロンドン時間26日)。いまチェックすると、現地ファンの下馬評で1番人気は相変わらず "The Colony"。ぼくもいたく感動しただけに(☆☆☆☆)、入選を祈るばかりだ。
 気になるのは、今年の(対象は昨年度)全米批評家協会賞受賞作、"The Love Songs of W.E.B. Du Bois" を推している向きもあること。なにしろ、わりと小さな活字で800ページ近くもある超大作なので、ぼくはひと目見ただけで戦意喪失していたが、それがブッカー賞レースに参戦となると、下馬評次第ではショートリスト発表(9月6日)までに読まないといけなくなる。いまからもう、ため息が出そう。
 さてこのところ、諸般の事情で読書は小休止。ジムの行き帰りにバスの車内で "The Netanyahus"(2021)をボチボチ読んでいたくらい。ご存じ今年のピューリツァー賞受賞作だ。わりと面白い。主人公はたぶん、最近大学を定年退職したユダヤ系の著名な歴史学者 Ruben Blum。若いころ、自分もまだ新米講師なのに、学内事情で新規採用者の資格審査を引き受けざるをえなくなったエピソードをふり返る。学部長の尊大な態度がユーモラスに描かれている。くだんの応募者が Ben-Zion Netanyahu という同じくユダヤ系の学者、というところまで進んだ。
 寝床のなかでは『球形の荒野』を半世紀ぶりに読んでいた。再読のきっかけは、1ヵ月ほど前、たまたま『松本清張地図帖』をパラパラめくっていたら、本書の最初の舞台が薬師寺としるされていたこと。まったく記憶になかった。
 薬師寺なら、なんどか訪れたことがある。(写真は薬師寺大講堂。2018年3月に撮影)

 清張ミステリゆかりの寺とおぼえていれば、もっと興味ぶかく拝観できたろうに。それにしても、初出当時(1960)、薬師寺から唐招提寺へ出る道に「人通りが無い」とあるのにはビックリした。ぼくの知っているあの道は、いつも修学旅行生でごった返していたからだ。
 そんな発見もあって最初はクイクイ読めたのだけど、やがてカラクリをだんだん思い出すにつれスローダウン。文庫本の下巻にたどり着くまで1ヵ月近くもかかった。あとまだ半月はかかりそう。おおむね、ミステリの再読は骨が折れる。
 ミステリではないが、表題作も再読ミステリと同じような理由で、なかなか先へ進まなかった。最初のシーンでカラクリがなんとなくわかってしまい、それ以後、「数ページめくっただけで、すぐに飽きてしまった」。要するに、貧乏青年の奮戦記。その悪戦苦闘ぶりに多少変化があるだけで、大筋はほとんど変わらない。
 途中報告でも紹介したように、『新潮世界文学辞典』によれば、本書は刊行当時、「全ヨーロッパにセンセーションを起こし、文学思潮をほとんど変化させた」文学史にのこる名作のはずなのだが、いまではもう邦訳は古本でしか入手できないようだ。いわば、ほとんどミイラ化してしまっているのも、ひとつには、ぼくと同じような感想をもつ読者が多かったせいかもしれない。
 とはいえ、本書の文学的価値は認めざるをえない。「実存主義文学あるいは不条理文学というと、一般にはカフカが先駆者のひとりと目されているが、本書はそのカフカのさらに先駆けとなった作品」と思われるからである。その理由はレビューで詳しく述べた。ひとつだけ補足すると、本書の貧乏青年がシジフォスの岩運びのような徒労感をおぼえていることはたしかだ。

 ともあれ、名作巡礼というのは最近のぼくの仕事のひとつになっているけれど、今回もこの仕事、しんどいけど、やりがいはあったと自己マンにひたっていいだろう。

Audrey Magee の “The Colony”(1)

 きのう、Audrey Magee の "The Colony"(2022)を読了。既報のとおり今年の George Orwell Prize の最終候補作だが、いまチェックすると、もっかイギリス現地ファンのあいだでは、今年のブッカー賞ロングリスト入選が最有力視されている。Audrey Magee はアイルランドの女流作家で、2014年の女性文学賞最終候補作 "The Undertaking"(未読)でデビュー。"The Colony" は第2作である。さっそくレビューを書いておこう。

[☆☆☆☆] 感服した。この静寂、この緊張、ただごとではない。しかもそこに深い意味がこめられている。舞台はアイルランド最果ての小島。荒涼とした風景に波の音と鳥の啼き声がひびき、静けさがつのる。島を訪れたイギリスの画家ロイドと、宿泊先の息子ジェイムズがそれぞれ絵筆を走らせ、ふれあう。話題のひとつはゴーギャンの名画『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』。分断と対立が激化した今日、人類にとってますます重みを増しているこの根源的な問いが、本書の静寂と緊張の背景にあるといっても過言ではない。同じく島に滞在しているフランスの言語学者マッソンはアイルランド語の消滅を危惧。英語の一般使用、さらにはイギリスによるアイルランド植民地化をめぐってロイドと議論するが、じつはロイドもマッソンも、心のなかでは矛盾と葛藤に引き裂かれている。ジェイムズ少年も、彼の母マレードもまたしかり。それゆえ彼らがかわす静かな会話には終始一貫、内面的な分裂と、おたがいの立場の相違から生まれる緊張感がみなぎっている。そこにユーモアと皮肉もまじる絶妙な話芸は、思わずため息が出るほどだ。おりしも時代は1979年、アイルランド本土ではIRAやアルスター防衛協会などによるテロ事件が頻発し、報復の応酬がくりひろげられている。「どう考えたらいいのかわからない」とジェイムズの祖母はいう。人類共存の問題として紹介された上の根源的な問いへの答えのひとつだが、もうひとつはジェイムズの画風。ものごとを単独の視点から固定的にとらえるのではなく、すべてを変化・発展する連続した平等の存在としてながめる。危機の時代を生きるそんな知恵も読みとれる本書の静寂と緊張は、ロイドたちの流れるような独白とあいまって、「ただごとではない」。傑作である。

Juan Rulfo の “Pedro Páramo”(2)

 待ち望んでいた Audrey Magee の "The Colony"(2022)がやっと届き、さっそく着手。なかなか面白い。
 これは2019年に創設された(前身あり) George Orwell Prize の今年の最終候補作だが、イギリスの文学ファンのあいだでは、今年のブッカー賞ロングリスト入選が有力視されている。いまのところ、2番人気のようだ。ほかにも何冊か気になる本はあるが、なにしろ年金生活者なので、あとは候補作の発表待ち。
 Audrey Magee はアイルランドの女流作家で、2014年の女性文学賞最終候補作 "The Undertaking"(未読)でデビュー。"The Colony" は第2作のようだ。
 舞台はアイルランドの最果ての小島。1979年の夏、イギリスの画家 Lloyd が現地の断崖の写生に訪れる。島へわたるさいの船頭とのやりとりがユーモアたっぷりで、スケッチふうの断片的な描写も気がきいている。
 Lloyd が投宿したのは村のさる一家のコテージで、女主人の Mairéad, その母 Bean, 息子の James との会話も、ユーモアと皮肉が混じった当意即妙の面白さがある。とりわけ、英語が達者な James とのふれあいが素朴な味わいで読ませる。荒涼とした海と断崖の景色もいいが、なにより静寂がすばらしい。
 一方、アイルランド各地ではIRAによるテロ事件が連続。アルスター防衛協会による反撃もあるなど殺伐とした雰囲気だが、こちらはいまのところ、簡単な説明にとどまっている。
 ともあれ Lloyd はひと夏静かに絵を描くつもりでいたが、そこへフランス人の言語学者 Jean-Pierre Masson が登場。Masson は Mairéad 一家の常連客で、島民たちの話すアイルランド語を研究、その絶滅を危惧している。こちらも静かな島の生活を期待していたが、宿泊先はなんと Llyoyd の隣りのコテージ。とんだところでミニ英仏戦争が勃発する。というわけで、「なかなか面白い」。
 閑話休題ラテンアメリカ文学からも長らく遠ざかっていた。表題作の前にこのジャンルで読んだのは、2019年の国際ブッカー賞最終候補作 "The Shape of the Ruins"(2015 ☆☆☆☆)と、やはり同候補作の "The Remainder"(2014 ☆☆☆★)だから、じつに3年ぶりということになる。

 もっとも、それ以前もマメに追いかけていたわけではない。上の2作や "The Savage Detectives"(1998 ☆☆☆☆)、"2666"(2004 ☆☆☆☆★★)など、2000年以降に英訳されたものなら何冊か出会ったけど、

"Pedro Páram" のように、1960年代からはじまるラテアメ文学大ブーム時代の作品はといえば、かの "One Hundred Years of Solitude"(1967 ☆☆☆☆★★)をはじめ、"Hopscotch"(1963 ☆☆☆☆)、"The Green House"(1966 ☆☆☆★★★)、"A Change of Skin"(1967 ☆☆☆☆★)、"The Obscene Bird of Night"(1970 ☆☆☆☆★)、"The Autumn of the Patriarch"(1975 ☆☆☆☆★)など、数えるほどしか接したことがない。読んだ時期でいえば、2018年の春("The Green House")以来ごぶさたしていた。

 なぜそうなってしまったかというと、ラテアメものはたしかに面白いのだけど、なにしろ大作が多いし、ぼくには難物であることも多かったからだ。読むたびにヘコたれた。上に挙げた往年の名作でクイクイ読めたのは、"The Obscene ...." と "The Autumn ..." くらいか。とりわけ前者は、むちゃくちゃオモロー(古いギャグでスミマセン)。
 この2冊と "2666" が、いままで読んだラテアメ文学のゴヒイキ作品ベスト3。ともあれ、どれも面白かった。しかし疲れた。
 この "Pedro Páramo" もそうだった。積ん読中のラテアメ本のなかでいちばん薄いということで取りかかったのだけど、見かけとちがって中身は軽薄短小ならぬ重厚濃密。大ブームの走りのころの作品で、いわば鼻祖的存在であることは前から知っていたが、それにしてもたいへんだった。

 その理由は、ぼく自身の語学力不足は棚に上げるとして、ひとえにこれが「生と死のポリフォニーが幾重にも織りなすマジックリアリズムの世界」だからである。タイトルの Pedro をはじめ、生きているかと思えば死んでいる、死んだかと思えば生きている。それこそ数えきれないほど多くの人物がコマギレに登場し、「みじかい断章ごとに話者・視点が交代、人称も変化。過去と現在、回想と独白、夢と現実、生者と死者が混淆し、時には死者同士も語りあう」。そんなヘンテコな話を追いかけているうちに思い出した。ラテアメ本を楽しむコツは、まず、わけがわからないけどガマンして読む。すると、そのうち面白さがだんだんわかってくる。
 本書の場合、これだけ死者が登場し、しかも生者と変わらぬ存在であるからには、どうしても生と死の意味について考えなければならない。とそう気づいたとき、『ソクラテスの弁明』の一節がうかんだ。「私は死後の世界がいかなるものか確たる知識を少しも持っていない」。それから、福田恆存の『人間・この劇的なるもの』も。「死において生の完結を考へぬ思想は、所詮、浅薄な個人主義に終るのだ」。「私たちは生それ自体のなかで生を味はふことはできない。死を背景として、はじめて生を味はふことができる」。
 そうした名著を断片的ながら読み返しているうちに、なんとかレビューをでっち上げることができた。いやはや、まったくもって、「少しのことにも、先達はあらまほしき事なり」ですな。

José Saramago の “Blindness”(1)

 ポルトガルノーベル賞作家 José Saramago(1922 – 2010)の "Blindness"(1995, 英訳1997)を読了。実際に使用したテクストは Harvill Press 版。さっそくレビューを書いておこう。

Blindness

Blindness

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[☆☆☆☆★] 破滅テーマSFの傑作である。ある日突然、人びとがつぎつぎに失明するという設定は『トリフィドの日』と似ているが、いくつか異なる点もある。まず、盲人たちを襲うのが食肉植物という人間以外の生物ではなく、人間自身であること。政府は失明の伝染性を疑い患者や濃厚接触者を隔離するが、施設内で食料の争奪戦が勃発。また監視中の兵士がパニックを起こして銃を乱射するなど、危機に直面して本能的、動物的に行動する人びとの姿があますところなく描かれる。むろん、なかには「人間らしく生きられなくても、せめて動物のようには生きないようにしよう」と懸命につとめる良識派もいて、こうした理性と本能、良心と欲望のせめぎあいから生じた不条理な混乱ゆえに、「全世界がまさしくここにある」。すなわち、危機を通じて人間性の本質が露呈するところに、上の娯楽作品との決定的なちがいがある。道徳的な難問が提出されるのも大きな相違点のひとつだ。隔離施設内では、食料を独占してほかの入所者から金品を、さらには女性の身体まで要求する悪党一味も出現。そこで良識派は、飢えをしのぐか人間としての尊厳を守るか、悪党の言いなりになるか悪党を倒すか、という苦しい選択を迫られる。このとき完全正解はありえない。悪人を殺しても殺さなくても、善人のままではいられないからだ。最初の患者たちが施設の外へ出てみると、市中に奇病が蔓延した結果、そこは盲人たちが亡霊のようにさまよい、汚物や排泄物が散乱した死の世界。時にサスペンスが高まり、すさまじいアクション・シーンもあるなど物語性にもすぐれる一方、終末の世界でひとはどう生きるべきか、と深く考えさせられる傑作である。

William Faulkner の “The Unvanquished”(3)

 また大事件が起きた。コロナ渦にはじまり、ウクライナ侵攻、そして今回の暗殺と、この数年、それまでほとんど予想されなかったような重大事件が連続している。三つの事件にそれぞれ関連はないが、coincidences にはちがいない。
 過去にも、そういえばあのときが歴史の転換点だった、と結果論的にいえるような時期があったと思う。もしかしたら、最近の coincidences についても、同じことが当てはまるかもしれない。日本をふくめ世界の状況が本質的には不変であるとしても、現象的にいま、一変する時代を迎えているのかもしれない。なにがどう変化するのか、しつつあるのか、今後の動向を注視する必要がありそうだ。こんな泡沫ブログで声をあげてもナンセンスなのだけれど。
 とそんなイントロになったのは、いま読んでいる Saramago の "Blindness" がどうやら、突然発生した危機的状況と、それに巻き込まれた人びとの反応、そこで露呈する人間性の本質をテーマにした作品のようだからだ。切羽のさいほど、人間にかんする真実が見えてくるものである。上の coincidencesでも同じだろう。その真実をフィクションのかたちで描くのが文学という意味で、Saramago はホンモノの文学者だと思う、いまのところ。
 閑話休題。ぼくが英語で海外の純文学を楽しむようになったのは、2000年の夏、きっかけは忘れたけど "Anna Karenina" を英訳で読んでから。Faulkner の "Light in August" にもさっそく手をつけた。前回書いたように、「Faulkner も読んだことがないのに英米文学をカジったといえるのか」という Faulkner コンプレックスがあったからだ。
 以来、表題作で16冊めの Faulkner。あしかけ20年以上もかかったが、これでたぶんヨクナパトーファ・サーガは完読。やっとコンプレックスがだいたい消えたような気がする。
 そこで学生時代をふり返ると、まわりの彼も彼女もたぶん、過去記事「なにから読むか、フォークナー」でいえば、もっぱら最初の6冊をめぐってケンケンガクガクやりあっていたのではないか。

 番号が下がるほどだんだんコアになり、今回の "Unvanquished" はといえば、ぼくもじつは何年か前、Wiki を調べるまで知らなかった。ヨクナパトーファ・サーガとしては、時代的に第1作の "Flags in the Dust (Sartoris)" よりもさらに古く、南北戦争の戦中・戦後の混乱期を扱った連作短編集である。

 邦題は『征服されざる人々』。セシル・B・デミル監督の西部劇にも同名の作品があるが、あちらの原題は "Unconquered"。観たおぼえはあるけれど、印象にのこっていない。Faulkner 原作でないことはたしかだ。
 Webster's New Dictionary of Synonyms によると、conquer は usually implies a large and significant action (as of a large force in war) or an action involving an all-inclusive effort and a more or less permanent result で、vanquish のほうは suggests a significant action of a certain dignity usually in the defeat of a person rather than a thing and usually carrying the suggestion of complete defeat とのこと。ざっくりいえば、征服の対象が国家か個人か、というちがいだろか。
 その点、本書の主人公「私」もさることながら、通称 Granny こと Rosa の活躍がとても印象的。この老女、「私」がウソをついたりすると石鹸で口のなかをすすがせるくせに、自分は北軍の兵士相手に愉快な詐欺を働いたりして、なんとも面白い。前半の圧巻は、北軍の将校が家宅捜索に訪れたとき、Rosa が「私」と奴隷の黒人少年をスカートのなかに隠して、将校と「対決」するシーンだろう。まさに the unvanquished である。
 それからもちろん、「私」のいとこ「ドルシラがベイヤード(私)に思いを寄せ、ベイヤードが横死した父の仇と対決する第7話が全篇の白眉」。「信念と信義をつらぬく男たちの心意気こそ、女たちの勇気と愛ともども、『征服されざる精神』の根幹をなすものではないか、と思われるのである」。
 英語は Faulkner にしては簡単。読んだ順番はたまたま最後になったけど、上の時代設定からいっても、もし未読なら、わりと早い時期に取り組んでもいいのではないか。ぼく自身はといえば、あと気になるのは短編集だけとなったが、きっとしんどいだろうな。Faulkner コンプレックス、いつになったら完全に解消するのだろうか。

(下は、この記事を書きながら聴いていたCD)

William Faulkner の “The Unvanquished”(2)

 注文している今年の〈ブッカー賞ロングリスト候補作〉"The Colony" がまだ届かない。そこで引きつづき、同書の落手直前にタイミングよく片づけば、と Saramago の "Blindness" をボチボチ読んでいる。相変わらず面白い。
 ひとがなぜか突然失明する伝染性の奇病 white sickness が家庭内感染、市中感染によりさらに蔓延。現在のコロナ渦そっくりだ。
 当局は患者を閉鎖中の精神病院に隔離するのだが、これも某国のゼロ・コロナ政策と酷似している。ちがうのはさらに苛烈な点で、病院から脱出しようとした患者を監視中の兵士が射殺。食料がなかなか届けられないことに業を煮やした患者たちが、配給に訪れた兵士にむかって殺到すると、兵士のほうはパニックを起こして銃を乱射。大惨事となる。
 また患者たちのあいだでも、やっと届いた食料をめぐって争いが絶えない。目が見えないだけに不正を働く者、それを阻止しようとする人びと、さらには、所持していた拳銃でまわりを威嚇、配られた食料を独占して金品との交換を要求する悪党も。
 こうした食料問題以上にやっかいなのが衛生問題だ。トイレがどこにあるかわからない、わかっても正確な便器の位置が不明。そもそも、急を要するときにたどり着けない。そこで、ところかまわず用を足す、ということになる。
 極端な状況だが、これを通じて人間性の本質が浮かびあがってくるところが、いちばん面白い。傑作かもしれませんな。
 閑話休題。Modiano につづいて、Faulkner も("Collected Stories" を除いて)手持ちの作品16冊をすべて読了。1冊めの "Light in August" を読んだのが2000年の夏だから、ずいぶん気の長い話だ。
 それにしても、なぜ Faulkner にこだわったのか、それほど Faulkner が大好きなのかというと、じつはそうでもない。白状すると、ひとえにコンプレックスから読みつづけたのである。
 ぼくの学生時代、まわりには Faulkner を読んでいるひとがたくさんいた。ぼくもいちおう、中学高校のときに邦訳で読んだことはあったけど、大学に入ると、明らかに英語で読んでいるひとたちが多い。一方、ぼくが英語の勉強に、と思って読んだのはエンタテインメントばっかり。イギリスなら Alistair MacLean, Dick Francis。アメリカなら Raymond Chandler, Ross Macdonald。純文学はといえば、英語にハマるきっかけとなった Hemingway しか読んだことがなかった。
 これではいかん、とある年の夏、一念発起して純文学に取り組んだものだけど、そのときも Faulkner はパス。猫もシャクシも Faulkner という周囲の風潮に、ケッたくそわるい、と逆らったような気がする。これが間違いのもとだった。
 以来、宮仕えの時代も上記のとおり2000年の夏まで Faulkner は未読。しかし心のなかでは、Faulkner も読んだことがないのに英米文学をカジったといえるのか、という思いがずっとあった。すなわち、Faulkner コンプレックスである。
 看板に偽りあり。そろそろ表題作の話を、と思ったところで暑さのせいか息切れ。中途半端だけど、きょうはおしまい。

(下は、この記事を書きながら聴いていたCD)

 

Patrick Modiano の既読作品一覧とゴヒイキ作品ベスト3

 前回採りあげた "The Occupation Trilogy" で、架蔵している Modiano 作品はすべて読了。ほかに何冊か気になるものはあるが、いますぐ読みたいほどではない。そこで既読作品一覧をアップするとともに、My Favorite 3 を選んでみることにした。
 その前にまず簡単なモディアノ中毒歴を。ぼくはいまでこそ軽度の患者だけど、Patrick Modiano という名前を見かけたのはそう昔のことではない。2016年11月の記事から引用すると、「先月の中ごろ、ガーディアン紙の連載記事 'Tips, links and suggestions: what are you reading this week?' をながめていたら、背表紙の写真だけだったが、なんとなく気になる本が載っていた。"Paris Nocturne"。蠱惑的なタイトルである。さっそくネットで検索。カバー写真をひと目見て迷わず注文した。このタイトルでこのカバーなら、読者が飛びつくこと間違いなし、という出版社の読みどおりのジャケ買いである。フランス語の原題は "Accident nocturne"。英訳タイトルのほうがずっといい」。
 当時は、Modiano が2014年にノーベル文学賞を受賞したことも知らなかった。その後、退職と前後して何冊か読み、すっかりファンに。まさに「遅れてきた老人」である。
 さて上の "Paris Nocturne" を皮切りに、いま数えると計15冊通読("The Occupation Trilogy" は3分割)。こんなに英語でたくさん読んだ作家は、ほかに Iris Murdoch(17冊)、William Faulkner(16冊)、Graham Greene (14冊)くらいしかいない。
 その15冊のなかからゴヒイキ3作を選んでみると、上の事情で "Paris Nocturne" は外せない。それから "Dora Bruder" も当確。つぎに "Suspended Sentences" か。点数的には "La Place de l'Étoile" のほうが上だけど、もういちど読むのはしんどい。というわけで、この3冊に決定。
 ゴンクール賞に輝いた "Missing Person" を落とすなど、たぶん世評とはちがっていると思う。再読したらどうなるかわからない。いま現在のゴヒイキということで。
 以下、既読作品一覧をフランス語原書の刊行順にアップしておこう。(後日追加した場合は、そのつどこの記事を更新します)。

1. La Place de l'Étoile(1968 ☆☆☆☆)

2. The Night Watch(1969 ☆☆☆★★★)

3. Ring Roads(1972 ☆☆☆★★★)

4. Villa Triste(1975 ☆☆☆★★)

5. Missing Person(1978 ☆☆☆★★)

6. Young Once(1981 ☆☆☆★★★)

7. Sundays in August(1986 ☆☆☆★)

8. Honeymoon(1990 ☆☆☆★)

9. Suspended Sentences(1993 ☆☆☆★★★)

10. Dora Bruder(1997 ☆☆☆☆)

11. Paris Nocturne(2003 ☆☆☆☆)

12. In the Café of Lost Youth(2007 ☆☆☆★★)

13. The Black Notebook(2012 ☆☆☆)

14. So You Don't Get Lost in the Neighborhood(2014 ☆☆☆★★)

15. Invisible Ink(2019 ☆☆☆)

(下は、この記事を書きながら聴いていたCD)