ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Juan Rulfo の “Pedro Páramo”(2)

 待ち望んでいた Audrey Magee の "The Colony"(2022)がやっと届き、さっそく着手。なかなか面白い。
 これは2019年に創設された(前身あり) George Orwell Prize の今年の最終候補作だが、イギリスの文学ファンのあいだでは、今年のブッカー賞ロングリスト入選が有力視されている。いまのところ、2番人気のようだ。ほかにも何冊か気になる本はあるが、なにしろ年金生活者なので、あとは候補作の発表待ち。
 Audrey Magee はアイルランドの女流作家で、2014年の女性文学賞最終候補作 "The Undertaking"(未読)でデビュー。"The Colony" は第2作のようだ。
 舞台はアイルランドの最果ての小島。1979年の夏、イギリスの画家 Lloyd が現地の断崖の写生に訪れる。島へわたるさいの船頭とのやりとりがユーモアたっぷりで、スケッチふうの断片的な描写も気がきいている。
 Lloyd が投宿したのは村のさる一家のコテージで、女主人の Mairéad, その母 Bean, 息子の James との会話も、ユーモアと皮肉が混じった当意即妙の面白さがある。とりわけ、英語が達者な James とのふれあいが素朴な味わいで読ませる。荒涼とした海と断崖の景色もいいが、なにより静寂がすばらしい。
 一方、アイルランド各地ではIRAによるテロ事件が連続。アルスター防衛協会による反撃もあるなど殺伐とした雰囲気だが、こちらはいまのところ、簡単な説明にとどまっている。
 ともあれ Lloyd はひと夏静かに絵を描くつもりでいたが、そこへフランス人の言語学者 Jean-Pierre Masson が登場。Masson は Mairéad 一家の常連客で、島民たちの話すアイルランド語を研究、その絶滅を危惧している。こちらも静かな島の生活を期待していたが、宿泊先はなんと Llyoyd の隣りのコテージ。とんだところでミニ英仏戦争が勃発する。というわけで、「なかなか面白い」。
 閑話休題ラテンアメリカ文学からも長らく遠ざかっていた。表題作の前にこのジャンルで読んだのは、2019年の国際ブッカー賞最終候補作 "The Shape of the Ruins"(2015 ☆☆☆☆)と、やはり同候補作の "The Remainder"(2014 ☆☆☆★)だから、じつに3年ぶりということになる。

 もっとも、それ以前もマメに追いかけていたわけではない。上の2作や "The Savage Detectives"(1998 ☆☆☆☆)、"2666"(2004 ☆☆☆☆★★)など、2000年以降に英訳されたものなら何冊か出会ったけど、

"Pedro Páram" のように、1960年代からはじまるラテアメ文学大ブーム時代の作品はといえば、かの "One Hundred Years of Solitude"(1967 ☆☆☆☆★★)をはじめ、"Hopscotch"(1963 ☆☆☆☆)、"The Green House"(1966 ☆☆☆★★★)、"A Change of Skin"(1967 ☆☆☆☆★)、"The Obscene Bird of Night"(1970 ☆☆☆☆★)、"The Autumn of the Patriarch"(1975 ☆☆☆☆★)など、数えるほどしか接したことがない。読んだ時期でいえば、2018年の春("The Green House")以来ごぶさたしていた。

 なぜそうなってしまったかというと、ラテアメものはたしかに面白いのだけど、なにしろ大作が多いし、ぼくには難物であることも多かったからだ。読むたびにヘコたれた。上に挙げた往年の名作でクイクイ読めたのは、"The Obscene ...." と "The Autumn ..." くらいか。とりわけ前者は、むちゃくちゃオモロー(古いギャグでスミマセン)。
 この2冊と "2666" が、いままで読んだラテアメ文学のゴヒイキ作品ベスト3。ともあれ、どれも面白かった。しかし疲れた。
 この "Pedro Páramo" もそうだった。積ん読中のラテアメ本のなかでいちばん薄いということで取りかかったのだけど、見かけとちがって中身は軽薄短小ならぬ重厚濃密。大ブームの走りのころの作品で、いわば鼻祖的存在であることは前から知っていたが、それにしてもたいへんだった。

 その理由は、ぼく自身の語学力不足は棚に上げるとして、ひとえにこれが「生と死のポリフォニーが幾重にも織りなすマジックリアリズムの世界」だからである。タイトルの Pedro をはじめ、生きているかと思えば死んでいる、死んだかと思えば生きている。それこそ数えきれないほど多くの人物がコマギレに登場し、「みじかい断章ごとに話者・視点が交代、人称も変化。過去と現在、回想と独白、夢と現実、生者と死者が混淆し、時には死者同士も語りあう」。そんなヘンテコな話を追いかけているうちに思い出した。ラテアメ本を楽しむコツは、まず、わけがわからないけどガマンして読む。すると、そのうち面白さがだんだんわかってくる。
 本書の場合、これだけ死者が登場し、しかも生者と変わらぬ存在であるからには、どうしても生と死の意味について考えなければならない。とそう気づいたとき、『ソクラテスの弁明』の一節がうかんだ。「私は死後の世界がいかなるものか確たる知識を少しも持っていない」。それから、福田恆存の『人間・この劇的なるもの』も。「死において生の完結を考へぬ思想は、所詮、浅薄な個人主義に終るのだ」。「私たちは生それ自体のなかで生を味はふことはできない。死を背景として、はじめて生を味はふことができる」。
 そうした名著を断片的ながら読み返しているうちに、なんとかレビューをでっち上げることができた。いやはや、まったくもって、「少しのことにも、先達はあらまほしき事なり」ですな。