ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

William Faulkner の “The Unvanquished”(2)

 注文している今年の〈ブッカー賞ロングリスト候補作〉"The Colony" がまだ届かない。そこで引きつづき、同書の落手直前にタイミングよく片づけば、と Saramago の "Blindness" をボチボチ読んでいる。相変わらず面白い。
 ひとがなぜか突然失明する伝染性の奇病 white sickness が家庭内感染、市中感染によりさらに蔓延。現在のコロナ渦そっくりだ。
 当局は患者を閉鎖中の精神病院に隔離するのだが、これも某国のゼロ・コロナ政策と酷似している。ちがうのはさらに苛烈な点で、病院から脱出しようとした患者を監視中の兵士が射殺。食料がなかなか届けられないことに業を煮やした患者たちが、配給に訪れた兵士にむかって殺到すると、兵士のほうはパニックを起こして銃を乱射。大惨事となる。
 また患者たちのあいだでも、やっと届いた食料をめぐって争いが絶えない。目が見えないだけに不正を働く者、それを阻止しようとする人びと、さらには、所持していた拳銃でまわりを威嚇、配られた食料を独占して金品との交換を要求する悪党も。
 こうした食料問題以上にやっかいなのが衛生問題だ。トイレがどこにあるかわからない、わかっても正確な便器の位置が不明。そもそも、急を要するときにたどり着けない。そこで、ところかまわず用を足す、ということになる。
 極端な状況だが、これを通じて人間性の本質が浮かびあがってくるところが、いちばん面白い。傑作かもしれませんな。
 閑話休題。Modiano につづいて、Faulkner も("Collected Stories" を除いて)手持ちの作品16冊をすべて読了。1冊めの "Light in August" を読んだのが2000年の夏だから、ずいぶん気の長い話だ。
 それにしても、なぜ Faulkner にこだわったのか、それほど Faulkner が大好きなのかというと、じつはそうでもない。白状すると、ひとえにコンプレックスから読みつづけたのである。
 ぼくの学生時代、まわりには Faulkner を読んでいるひとがたくさんいた。ぼくもいちおう、中学高校のときに邦訳で読んだことはあったけど、大学に入ると、明らかに英語で読んでいるひとたちが多い。一方、ぼくが英語の勉強に、と思って読んだのはエンタテインメントばっかり。イギリスなら Alistair MacLean, Dick Francis。アメリカなら Raymond Chandler, Ross Macdonald。純文学はといえば、英語にハマるきっかけとなった Hemingway しか読んだことがなかった。
 これではいかん、とある年の夏、一念発起して純文学に取り組んだものだけど、そのときも Faulkner はパス。猫もシャクシも Faulkner という周囲の風潮に、ケッたくそわるい、と逆らったような気がする。これが間違いのもとだった。
 以来、宮仕えの時代も上記のとおり2000年の夏まで Faulkner は未読。しかし心のなかでは、Faulkner も読んだことがないのに英米文学をカジったといえるのか、という思いがずっとあった。すなわち、Faulkner コンプレックスである。
 看板に偽りあり。そろそろ表題作の話を、と思ったところで暑さのせいか息切れ。中途半端だけど、きょうはおしまい。

(下は、この記事を書きながら聴いていたCD)