ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

D. H. Lawrence の “Aaron's Rod”(2) 

 D. H. Lawrence の "Aaron's Rod" には 'aloness', 'singleness' という単語が何度か出てくる。訳せば「一人であること」「単独」。これが感傷的な「孤独」の意でないことは作中人物も断っているとおりで、ぼくは前々回、これを自分の言葉で「人がそれぞれ唯一無二の存在である証しとしての自己」と表現した。
 で、本書に登場する作家によれば、自己犠牲や自己放棄は愛ではなく、上のような単独者としての自己、言い換えれば soul「魂」を所有しながら交わるのが愛の秘蹟、愛の完成なのだという。まるで空を飛ぶ二羽の鷲のように、両者が自分の魂を所有し、ともに自由でありながら交わるのが真の愛し方であると。
 しかし考えてみれば、ロレンスの言う意味での「自己」なるものは存在するのだろうか。少なくとも、ぼく自身、「人がそれぞれ唯一無二の存在である証しとしての自己」を所有しているかと振り返ると、かなり怪しい。その辺はロレンスもしっかり見据えていて、 彼は "Apocalypse"『現代人は愛しうるか』の中でこう述べている。「この世に純粋な個人というものはなく、また何人といえども純粋に個人たりえない」。(福田恆存訳)
 また、『現代人は愛しうるか』には、こんな言葉も出てくる。「愛情にまったく身を委ねきるならば、底の底まで絞りとられ、ついには個人の死を招来する。本来、個人はなんとしても己れの立場を堅持していかねばならないものだからだ」。
 それがロレンスの現実認識だ。ところが "Aaron's Rod" の作中人物は、上述したような「愛の秘蹟」「愛の完成」という理想を述べる。こうした理想と現実の矛盾を踏まえて、ぼくは前のレビューでこう書いたのだ。ロレンスは本書において、「人間存在の根源にある魂の問題として、人は愛において個人たりうるのか、そもそも人は愛しあえるのか、と訴えかけてくる」。
 このような訴えは、日本人のように絶対的な価値基準を持たぬ文化からは生まれない。つまり、「これはやはり、神の愛、キリストの愛という絶対的な愛の洗礼を受け、そこから人間的な愛の本質について考えざるを得なかった文化の小説」なのである。
 …何やら禅問答のようになってしまった。この続きはまた後日。