ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Lawrence Durrell の “Clea”(1)と『アレクサンドリア四重奏』

 ゆうべ、Lawrence Durrell の "Clea"(1960)を読了。これでやっと Alexandria Quartet(アレクサンドリア四重奏)を全巻通読したことになる。
The Alexandria Quartet [☆☆☆☆★★]

 老後の生活に入り、この四部作の攻略は当面の最大目標のひとつだっただけに感無量だ。前三巻のレビューもあわせて再録しておこう。なお、実際に読んだのは Faber and Faber の合冊版だが、分冊版のほうが取り組みやすいと思う。[☆☆☆☆★★] 前三巻から時は流れた。第二次大戦勃発、そして終戦。著者によれば、四部作全体は形式的に「相対性理論を採用」し、本書は「時間の次元を解放」した「真の続編」であるという。相対性理論はさておき、たしかに時間の流れを導入した効果は大きい。愛の真実が、人間存在の本質が見えてくるからだ。語り手として「私」(作家ダーリー)が再登場し、ジュスティーヌをはじめ前巻までの主要人物と順次再会。他人の手紙や手記などをまじえた一人称多視点スタイルにより、要は女にだまされ、いい教訓になったというだけの話を通じて、真実の可変性、多面性が明らかにされる。真実とは「もろ刃の剣」であり、これを言語でとらえるのは至難のわざ。矛盾する事実が同時に存在する状態こそ「ありのままの真実」であり、この状態はジョークやシンボリズムによってしか表現しえない。唯一絶対の真実が存在しないのなら人生は幻想もしくは相対的なフィクションにすぎず、ひとは過去・現在・未来の時間の流れのなかで傷つきながら生きていくしかない。ダーリーのみならず四部作の登場人物が巻きこまれるのは、不倫や近親相姦など基本的にメロドラマである。それが本書では、とりわけダーリーの作家仲間パースウォーデンの文学論、認識論、さては宇宙論によって形而上学の高みへと昇華されていく。その手記を読んだダーリーとパースウォーデンの紙上対話は、ふたりの作家をあやつる著者のいわば自問自答。それをフィクションのかたちで提示するとはまさに超絶技巧の極致。この抽象的な論議と対照的なのが、前巻まで端役にすぎなかった画家クレアの織りなすメロドラマだ。終幕近く、一気に緊張の高まるアクション場面は圧巻で、こうした物語性と上述の形而上学的な抽象論とが違和感なく同居している点に驚きを禁じえない。全巻を締めくくるにふさわしい傑作である。
Justine

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[☆☆☆☆★★] 通説によればテーマは「現代の愛の探求」。たしかにジュスティーヌとその夫、愛人、そのまた恋人をめぐる四角関係を中心に、ここでは愛の諸相が示され、その本質が追求されている。が、と同時に自己の探求、ないし自我の確立の試みも認められるのではあるまいか。確たる自分がいなければ他人を真に愛することもできない。しかし上の探求や試みの必要があるということは、それだけ自我が希薄になり、人間が弱くなったということだ。事実、本書の時代は「血の匂いがする」第二次大戦前夜。舞台は「愛をしぼりとり、性に傷ついた者が生まれる」街、アレクサンドリア。そこに「私」をはじめ、精神的に虚弱な男たちが集まっている。彼らは女と出会い、恋に落ちる。愛の嵐の中心にいるのがジュスティーヌだ。唯一、強烈な存在である。しかし彼女もまた自己を模索している。愛とは、それによって成長し、自分自身を所有するにいたった者同士が超然として魂の奥底で結びつくこと。そのときはじめて、ひとは自由意志の極限に達し、神の前で不滅の霊魂となる。ジュスティーヌと男たちの関係からは、キリスト教文化における、そんな究極の純愛が見えてくる。けれどもそれは愛の一面にすぎない。上の四人はそれぞれ相補的な存在であり、彼らの愛はいわば愛の四面を示すものだ。むろんそこには矛盾と対立がある。こうした分裂をはらむ愛を描くうえで、多民族、多宗教、多言語の街アレクサンドリアはまさに最高の舞台であり、叙述形式としても「私」の視点にくわえ、複数の人物の手紙や日記、さらには劇中劇ともいえる小説からの引用も頻出、複雑な構成となるのは当然の帰結である。五感を刺激する繊細かつ濃密な文体しかり。すこぶる激しい愛の嵐に見舞われた「私」は深く傷つき、いま静かに自身のアレクサンドリア時代を回想している。四部作の第一巻にして大傑作である。[☆☆☆☆★] 第一巻の原稿を読んだ友人バルタザールの注釈をもとに前作の男女関係を「私」が再検証。現実と虚構、実在の人物と小説のキャラクターという対比が読みとれるメタフィクションである。そのねらいはやはり「愛の探求」。ジュスティーヌをめぐる四角関係が五角に発展、さらに周辺の人物も参入するなか、愛の真実とはなにかという古典的な問いが発せられる。見る者によって事実の意味が異なるのは見解の相違か、事実そのものの多義性か。異なる真実は相補的なものか、互いに否定しあうものか。「私」は錯綜する愛の謎に身も心もからめとられていく。完全な相思相愛は存在しない。心の空白を愛で満たそうとする試みは完成したとたん幻想と化し、愛はひとを結びつけ切り離してしまう。自己実現、自己探索もつねに挫折。ジュスティーヌは幸福へとつながる「魂の内的現実」のもつ意味と価値を否定する虚無の深淵につつまれる。おりしも時代は不測の事態を予感させる第二次大戦前夜。舞台は「聖と俗が共存」し、「純愛と猥褻という不可能な組みあわせ」が可能になる多民族の街アレクサンドリア。本書における愛の現実とは、まさに時代の空気と街の実情を象徴するものであり、愛が上のように多面体、多角形ということはすなわち、人間が愛にかぎらず真実の一面、一角しか認識しえないということだ。こうした認識にいたるプロセスが、書中に登場する作家の言を借りれば、「人間の情熱を正直に描くことで人間の諸価値を検証するという絶望的」な試みなのである。ジュスティーヌが前回ほど強烈な存在ではなく、山場も減っているが、第一巻の補完もしくは異稿という本書の性格を考えれば大きな減点材料ではない。次巻でさらにどんな愛の諸相が示されるのか楽しみな傑作である。[☆☆☆☆★★] 驚いた。じつにおもしろい。四部作の第三巻でありながら、これから読みはじめても、じゅうぶんに楽しめる大傑作である。成功の秘訣はまず、前巻まで端役にすぎなかった若き駐エジプト大使、マウントオリーヴを中心に据えたこと。これにより、同じ時代、同じ顔ぶれなのに人物関係が一新されたかのような印象を受ける。話法の変化がもたらした効果も大きい。前巻までは「私」の叙述に他人の手紙や日記などがまじる一人称多視点スタイル。それが本書では三人称で最初から複数の視点が導入された結果、より多くの場面で、より多くのエピソードが展開。それゆえ物語性という点で前二作をしのぐ抜群の仕上がりとなっている。そのぶん、「愛の探求」を通じて人間存在の本質に迫る試みは、形而上学的な抽象論としては影をひそめるが、一方、ひとはひとを純粋に愛しうるか、愛とはなんらかの打算をともなうものではないか、という古典的なテーマが政治陰謀劇、あるいは上質のメロドラマのなかで提示される。このため第一巻のジュスティーヌをめぐる四角関係、さらには第二巻の五角関係がまったく新しい意味をもち、恋愛とは別次元のものに変化。「異なる真実は相補的なものか、互いに否定しあうものか」という問いが、第二巻のみならず本巻もふくめ、作品全体について投げかけられていることがわかる。つまり本書は、ここまでのたんなる補完ないし異稿ではなく、一連の作品にコペルニクス的転回をもたらす役割を担っている。驚くべき神わざだ。当然、読者は前二作と本書の再読を余儀なくされ、いかなる結論が待ちうけているのかを知るべく最終巻を読まねばならない。こんな四部作の第三巻は空前絶後ではなかろうか。舞台は民族、宗教、言語によって相貌を変化させる街アレクサンドリア。時代は風雲急を告げる第二次大戦前夜。感服した。