ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

D. H. Lawrence の “Aaron's Rod”(3)

 D. H. Lawrence の "Aaron's Rod" には、ロレンスの現実認識を代弁する人物も登場する。それが主人公の男で、彼は当初、炭坑で働いていたのだが、やがて妻子を捨て、ロンドンでフルート奏者として生計を立てはじめる。その動機は要するに「愛からの逃避」だ。
 妻は彼を自分の愛情の道具としてしか認めない。そのことに男は耐えきれなくなったのだ。彼にとって自己犠牲や自己放棄にもとづく愛、つまり無私の愛とは「自殺行為」に他ならない。「愛情にまったく身を委ねきるならば、底の底まで絞りとられ、ついには個人の死を招来する」というわけだ。(『現代人は愛しうるか』)
 ところが、彼がロンドンで知りあった作家は、彼と同じ認識を示すものの、それと同時に、「両者が自分の魂を所有し、ともに自由でありながら交わる」という「愛の秘蹟」「愛の完成」についても語る。この作家に影響を受けた男は、作家のあとを追ってイタリアに旅立ち、そこでさる侯爵夫人と関係する。この二人の出会いは、本書の最大の山場と言っていい。
 本書の題名の Aaron's Rod とは、もともと旧約聖書の『出エジプト記』に出てくる「アロンの杖」のことで、原典をひもとくと、投げれば蛇になるという杖、奇蹟を行なう杖とある(第7章)。また、aaron's rod はアキノキリンソウという花の名称でもある。
 実際、男が侯爵夫人と関係するくだりは、まるで奇蹟の花が咲いたかのようだ。夫人は歌手でもあるのだが、長らく音楽から遠ざかっていた。それが男の奏でるフルートを聴いて感動し、何年ぶりかで歌を唄いはじめる。その歌声に男もまた聴きほれる…。
 ロレンスの小説で男女が関係する場面は、まさに「火花が散るような」としか言いようのない白熱した文体で描かれる。"Women in Love" が典型的な例で、本書もあれほどの迫力はないものの、その詩的情念にはやはり圧倒される。
 迫力がいくぶん落ちるのは、男が「愛の秘蹟」に対してためらいを覚えるからで、 このあたり、理想と現実の葛藤がそのまま男の心理に反映している。しかしそれにしても、たとえば「不死鳥が灰の中からよみがえり、炎につつまれて舞いあがった」などという文を読むと、愛が「個人の死」に結びつくという現実を認めつつ、同時に「愛の完成」という理想を求めずにはいられなかったロレンスの本音がかいま見えるような気がする。
 ロレンスは『アメリカ古典文学研究』の中で、メルヴィルについてこう書いている。「八〇年にわたるメルヴィルの苦悶を見るがいい。しかも彼はおしまいまで、理想という釘に刺されて苦悶したのだ」。(酒本雅之訳)
 メルヴィルはさておき、この言葉はじつは、ロレンス自身にも当てはまるのではないだろうか。現実認識を述べるだけなら、妻の「愛の強制」を逃れ、どこまでも逃避しつづける男を描けばいい。だが男はためらいつつ、「愛の秘蹟」に近づこうとした。しかも、それをロレンスは「詩的情念」に満ちた「白熱した文体」で謳いあげる。その点に、「理想を求めずにはいられなかったロレンスの本音」が読みとれるのである。本書に「奇蹟」を意味する題名をつけたのも、その「本音」ゆえだろう。
 「ロレンスの本音」とは、ぼくは次のようなものだと思う。「神の愛、キリストの愛は絶対的なものだ。しかし人が人を愛するとき、神ならぬ人間は神のように人を愛することができない。だが本来、愛とは絶対的なものではないのか。いや、そうあるべきだ。それが理想だ」。 
 もしこれが事実「本音」とすれば、それは「日本人のように絶対的な価値基準を持たぬ文化からは」とうてい生まれえぬ発想である。やはり、「絶対の洗礼」を受けた者の葛藤と言うしかない。
 …前回やレビューの舌足らずな部分を補足しているうちに、つい長くなってしまった。この続きはまた後日。