ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Lawrence Durrell の "Justine (Alexandria Quartet 1)"(2)

 去る7月、Joyce Carol Oates の Wonderland Quartet の掉尾を飾る "Wonderland"(1971 ☆☆☆★★★)を読みおえたとき、こんどはいよいよ Alexandria Quartet だな、と心に決めていた。そもそも、積ん読の山の中で質量ともに大山塊とも言うべきこの4部作の攻略は、定年退職後の目標のひとつだった。
 (1)でアップしたのは分冊版だが、そのとき検索するまで分冊が出ているとは知らなかった。実際に取り組んだのは、たしかもう20年近く前、神田の北沢書店で買った合冊版。なにしろ小さな活字で900ページ近い本である。その分厚さからして在職中は気おくれしていた。
 いま第2部 "Balthazar" を読んでいるところだが、"Justine" で文体に少し馴れたような気はするものの、やはりむずかしい。ワンセンテンスに重みがあり、字面の意味の奥にある著者の意図を探るのに相当時間がかかっている。"Justine" のときはなおさらで、まったくもって「質量ともに大山塊」と言うしかない。
 "Justine" のレビューを書いたとき、(2)では具体例を挙げて論証しようと考えていたのだが、このところの急な冷え込みで風邪をひいてしまい、頭が痛く余裕がない。そこできょうは、Lawrence Durrell と D. H. Lawrence の相違と思われる点についてだけ触れておこう。
 というのも、D. H. Lawrence は周知のとおり、"Lady Chatterley's Lover"(1928 ☆☆☆☆★★)をはじめ、数多くの恋愛小説を書いている。そしてこの Alexandria Quartet も「通説によればテーマは『現代の愛の探求』」。(「通説」というのは、新潮世界文学辞典の記述のことです)。両者にどんな違いあるのだろう、とぼくは時々考えながら "Justine" を読んでいた。
 D. H. Lawrence の場合、男女の恋愛は「魂と魂の激突」でもある、というのがぼくの非常に大ざっぱな理解だ。これまた論証を始めるとキリがないので、とりあえずこの理解で先へ進もう。激突というからには、それだけ魂が、自我が確立していなければ、たとえば "Women in Love"(1920 ☆☆☆☆★★)における火花が散るような男女の激突はありえない。
 ところが、"Justine" ではたしかに愛の本質が追求されているものの、「同時に自己の探求、ないし自我の確立の試みも認められるのではあるまいか。確たる自分がいなければ他人を真に愛することもできない。しかし探求や試みの必要があるということは、それだけ自我が希薄になり、人間が弱くなったということだ」。事実、ここには「火花が散るような男女の激突」は見受けられない。
 "Justine" が出版されたのは1957年。一方、Lawrence の諸作は1920年代が中心。この時代の差が大きい、とぼくは漠然と考えている。そのあいだに世界を揺るがす大事件が起こり、このため「人間が弱くなった」。いやはや、とんでもない暴論だと思いつつ、少なくともキリスト教文化圏では急速に信仰の力が衰えていった、とやはり何の根拠もなく想像している。いまもし学生時代だったら、その線で研究したいところです。
 なぜそんな想像をめぐらしたかと言うと、"Justine" によれば、「愛とは、それによって成長し、自分自身を所有するにいたった者同士が超然として魂の奥底で結びつくこと。そのとき人は自由意志の極限に達し、神の前で不滅の霊魂となる。ジュスティーヌと男たちの関係からは、キリスト教文化における、そんな究極の純愛が見えてくる」からだ。
 彼らの文化では、人間は絶対者たる神と対峙することによってはじめて強い自己を持つ。言い換えれば、自我の確立のためには神の存在が前提。それゆえ「自我が希薄」になったということは、それだけ信仰も揺らいできたということではないだろうか。逆に言えば、D. H. Lawrence における「魂と魂の激突」は、強い信仰の証しだったのかもしれない。
 などとラチもないことをボンヤリ考えながら、"Justine" ではワンセンテンスに四苦八苦。その挙げ句、もし英文科の先生がお読みになったら噴き出してしまいそうなレビューをでっち上げた次第です。4部作を通読したときには、スミマセン、間違ってました、ということになる可能性大ですね。
(写真は、愛媛県宇和島市佛海寺。毎夏、お施餓鬼のときだけこの池に水が張られ、お舟流しが行われる)