ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

D. H. Lawrence の “Aaron's Rod”(結び)

 D. H. Lawrence の "Aaron's Rod" の終幕には、読んでいて思わず「元気が出てくる」箇所がある。この本には、「両者が自分の魂を所有し、ともに自由でありながら交わる」のが「愛の完成」であると説く作家が登場するわけだが、その作家が恋愛論から人間哲学に進んでこう宣言するのだ。You are yourself and so be yourself. ひらたく訳せば、「どんなときでも自分を見失うな」だろうか。
 作家いわく、女であれ人類であれ神であれ、何を愛するにしても自分を見失ってはならない。心のいちばん奥にある自分自身を守り、外側に処方箋を求めてはならない。責任はすべて自分の心の中にある。いつも自分の内なる魂の声に耳をかたむけ、魂の根源から自然に湧きあがる生の力を信じよ。自分の中に唯一の不死鳥を育てよ。
 …ぼく自身の言葉で少し言い換えた部分もあるが、大略は以上のとおりだ。要はこんな人間哲学が、ロレンス独特の熱い言葉で畳みかけるように語られる。このあたり、小説の構成など彼の眼中にはまるでなかったかのようで、その意味では本書は決して優れた小説とは言えない。
 だが、ロレンスは小説としての出来不出来など無視しても、それこそレビューに書いたように「臆面もなく」、熱く語りたかったのだ。作中人物の言葉をそのままロレンスのメッセージと受け取ることは危険ではあるが、異様に白熱した文体から判断する限り、ここにはやはりロレンスの情念が爆発していると言わざるを得ない。
 ここで示された彼の哲学は、個人としての人間存在に対する深い信頼から成り立っている。その信頼は、もとより独善的な意味でも、エマスンの「自己信頼」のように楽観的なものでもない。「外側に処方箋を求め」ず、「自分の内なる魂の声に耳をかたむけ」る、つまり内省による「生の力」への信仰である。分かりやすく言えば、自分を顧みた上で、「人がそれぞれ唯一無二の存在である証しとしての自己」を発見し、信じることだろうか。
 『現代人は愛しうるか』では「この世に純粋な個人というものはなく、また何人といえども純粋に個人たりえない」と述べたロレンスが、本書では上のような意味での「自己信頼」を説く。これは決して矛盾ではない。現実は現実として認める一方、理想を熱く語らずにはいられないのが彼の「本音」だからだ。いやもう、「元気が出てくる」話ではないか。
 …一つの作品についてこんなに長々とおしゃべりを続けたのは初めてだが、この "Aaron's Rod" でロレンスはいちおう「卒業」としたいので、ぼくなりに気づいた点をあれこれ書いてみた。ほかにもまだ問題点はあるが、この辺でおしまいにしておこう。