ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Roberto Bolano の "2666"(2)

 ぼくはふだん「原典中心主義者」で、作品の紹介記事は斜め読みだし、序文、あとがきのたぐいもまず読まない。始めに作品ありき、余計な背景知識は鑑賞の妨げになるだけ…と言いたいところだが、要は面倒くさいからだ。が、この "2666" に関しては原則をまげ、少しだけあとがきに目を通してしまった。
 というのも、昨日のレビューにも書いたように、第5部の終幕で主人公の作家の妹が顔を出して以来、筆が滑っているとでも言うか、「粗筋を走り書きしているような感じで」、読んでいるうちから、ひょっとしてこれは未完に終わるのでは、というイヤな予感がしてきた。何しろハードカバーで912ページ、ぼくが取り組んだペイパーバック版でも900ページ近い超大作である。ここまでつきあったのに尻切れトンボとは、そりゃないでしょう…。
 ところが予感は的中、結末はいちおう結末らしく仕上がっているものの、決してきれいな終わり方ではない。で、やむなく、巻末の "Note to the First Edition" をちらっと読んでみたというわけだ。そこで初めて知ったのだが、本書はロベルト・ボラーニョの遺作であり、死後1年以上たって出版されたのだという。テキストがほぼ完成稿であることは確からしいが、それでも細部の仕上げ作業は残っていたはずだ。最後の「詰めの甘さ」はそのへんが関係しているのでないかと思う。
 さらに、ボラーニョは本書を執筆しながら死期が近いのを悟り、当初の計画どおり、ひとつの完成した作品として発表することを諦めたのだという。鬼気迫る話だが、結末で「筆が滑っている」印象を受けるのは、ボラーニョが完全に断念したのではなく、何とか作品全体に整合性を与えようとしていたからではないだろうか。
 ただ、この 「あとがき」の筆者も述べているように、本書の5つのパートには今のままでも充分に共通のモチーフが多く、「ひとつぶで5つの味が楽しめる」ものの、それがひとつぶであることには変わりない。その共通要素を指してぼくは、「さまざまな人間模様の総絵巻が繰りひろげられ、人生の各局面、人間の諸要素がありのままに、理屈ぬきに提示される。いわば人間の自然状態をそっくり眺められる大伽藍が本書である」と評したわけだ。(続く)