本書の感想は昨日のレビューに書いたとおりだが、その前の雑感でふれた疑問点について今日は考えてみたい。ぼくはこれを読みながら、主人公が大作家というだけあって、さすがに人間観察は鋭いし、内面描写もえらく細かいなあと感心していたのだが、そのうちふと気がついた。ここで描かれている人間関係はどうも希薄すぎるのではないか。
誰かが主人公の目にとまり、多分に想像も混ざった詳細な観察が始まる。では、その人物と主人公が共感にしろ反発にしろ、何らかの形でからみあい、そこでドラマが生まれるのかと思えばさにあらず、また次の人間観察が始まる。この作家はただ人物を眺めているだけで、自分の本音を吐くことも、本心を見せようともしない。また、相手の価値観を問うことも、相手と真剣にぶつかることもない。そんな傍観者的な態度で本当に「大作家」と言えるのだろうか。
つまり、ぼくが本書を読みながら感じた疑問とは、作者コルム・トビーンの描き方ではなく、描かれているヘンリー・ジェイムズ自身に対するものだったのである。雑感にも書いたとおり、ぼくはこの巨匠に関する知識は皆無に等しいので何とも言えないが、これだけトビーンが念には念をいれて造形した人物像だ。あながち見当外れなものとは思えない。
本書中で重要なエピソードのひとつは、ヘンリー・ジェイムズと女流作家コンスタンスとの交流である。ぼくは彼女が実在の人物かどうか知らないし、面倒くさいので確認もしていないが、ともかく生涯で最も親しい友人だったというコンスタンスに対する思いを述べた中で、こんな一節がある。And each time it became apparent to him what effect they were having, he retreated into the locked room of himself, a place whose safety he needed as desperately as he needed her involvement with him. (p.240)
ぼくはこれをもとに、「彼は他人とかかわりながらも『心の密室』に閉じこもり、密室という『安全地帯』から人間を眺めていた」と、トビーンの解釈によるヘンリー・ジェイムズの人間観を要約した。ぼくの勝手な直感では、この解釈は正鵠を射ているような気がする。
「その観察は性格や心理を対象としても、ホーソーンに対する彼の評価が示すとおり、人間の根本的な価値観や存在基盤には及ばなかった」。トビーンによれば、ヘンリー・ジェイムズはどうやら、ホーソーンや、本書に登場はしないがメルヴィルのように、善悪の問題と正面から取り組んだ作家ではなかったようだ。これは本来もっと論究すべき重大なポイントだが、そうするとヘンリー・ジェイムズを読まないといけなくなるのでぼくには荷が重い。
さらに直感を述べると、本書で巨匠の「メランコリーや孤独感、深い悲しみ、心の痛みが静かに伝わってくる」箇所はすべてフィクションのような気がする。本質的に傍観者であり、激しいドラマとはおそらく無縁だったヘンリー・ジェイムズを採りあげ、胸の内の葛藤をさりげなく描いて感動を与える点に、本書の秀作たるゆえんがあるのではないだろうか。