ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

"Tinkers" 雑感(2)

 短めの長編だし、英語の難易度もまあ普通なので、ぼくのような文学ミーハーでも本当は一気に読めるはずなのだが、多忙に加え、最近あれこれ思うことが多く、どうやら愛と死、喪失がテーマらしい本書に接すると、ページをめくる手がふと止まってしまう。前回、「饒舌といい細かい描写といい、ピンとくるものがある」と書いたが、ここには死を覚悟した人間のディテール感覚が息づいていると思う。
 第1部では、死に向かってカウントダウンしている老人 Georgeの物語と、それからさかのぼること70年前、George の父親 Howard の物語が平行して進む展開だったが、第2部に入ると George は少年として登場、Howard とその妻 Kathleen の三人が交代で主役をつとめる。といっても、焦点はもっぱら Howard にあり、今はさらに Howard の父親も出てきたところ。
 Howard はてんかん持ちで、その発作がどうも死につながりそうなのだが、ともあれ草花や動物などの細かい描写もふくめた森の中の風景、四季の移ろいなどを読んでいると、いくら三人称が中心とはいえ、これはやはり死を意識した人間の目を通したものと言わざるをえない。自分が近いうちに死ぬとわかったとき、今までの人生をふりかえるのは当然のこととして、その回想は必ずしも一貫したものではなく、それこそ路傍の花など、たまたま目にしてなぜか心に残っている細部も断片的によみがえってくるのではないか、と想像する。
 そういう細部を積み重ねながら、Howard は死を迎えようとしている(と思う)。その物語に顔を出す George はまだ少年だが、彼も第1部では死の床にある。とすれば、第2部は視点の変化こそあれ、じつは George が在りし日の父親 Howard の思い出を綴ったものと言えるかもしれない。で、その Howard もまた、自分の父親のことをふりかえっている。そんな死と回想の多重構造が本書の特徴なのでは、と思いはじめたところだ。
 人と人の出会いと別れはもちろん運命としか言いようがないが、人と本の出会いにも似たような点があって、なぜ今この時期、自分の人生と重ね合わせながら読む本を手にとってしまったのか不思議でならない。…ううむ、やっぱり疲れてますなあ。