ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

"The Bishop's Man" 雑感(4)

 今日は昨日とほぼ同じ行動パターンで、朝のうちは大音量でボブ・ディランを聴きながら「自宅残業」。もうヤケクソだ! 午後になってやっと、静かにクープランを流しながら、ジョギングに出かけるまで本書をじっくり読んでいた。
 ホンジュラス時代の事件も現在のメインストーリーも少しずつ輪郭が見えてきたが、もうネタばらしはできない。ただ、途中ながら断言すると、ぼくはこの小説が大好きだ! こんな至福のひとときを味わっているのは、ほんとうにいつ以来だろう、というくらい楽しい。…思い出した、去年の8月、やはり同じくギラー賞の受賞作、"Late Nights on Air" と "Through Black Spruce" を読んだとき以来だ!
 昨日の続きだが、主人公の司祭が「生身の人間としてよく描けている」点につくづく感心してしまう。「生身の人間」とは、不完全な人間、自分の不完全を痛感している人間ということだ。司祭は自分の心にひそむ欠点、弱さ、たとえば、いい女を見てムラっとする気持ちなどを十分つかんでいる。自分が「倫理的問題」をかかえ、それから目をそむけようとして酒をくらい、今また「道徳上の危機」におちいりつつあることを気に病んでいる。その描き方がこちらの胸にしみてくる。
 カトリックの司祭が主人公の小説というとグレアム・グリーンの『権力と栄光』が有名で、ぼくも学生時代に原書で読んだけど、中身はほとんど忘れてしまった。ただ、なんとなく神学的な主題で抽象論も出てきたような気がする。検索するのも面倒くさいので、そのかすかな記憶と本書を比較すると、こちらはまあ、浅いと言えば浅いと言えるかもしれない。思想的、哲学的なアプローチは皆無に等しい。
 ただ、ぼくはこの司祭が自分の心と向き合う姿に感動を覚える。司教の命により、神父たちのスキャンダルのもみ消し係として活動することで、司祭は人間の暗部というか醜悪な面と常に対峙している。そのスキャンダルのうち、どうやら最大のものが明らかにされつつある展開なのだが、司祭は高みに立つ傍観者として事件をとらえてはいない。彼には自分もまた罪人だという意識がある。その意識が孤独感や悲哀、そして酒につながっている。
 司祭が聖職者となる前、少しだけつきあった女と再会する場面があるが、このくだりは思わず溜息が出るほどすばらしい。単にロマンティックというだけでなく、司祭が自分の心を見つめている様子が手に取るようにわかり、しみじみとした味わいの「内省小説」の典型シーンである。