ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Rana Dasgupta の “Solo”(2)

 つい先日、仕事帰りに東京の根津まで足をのばし、友人の案内で路地裏を探訪、根津権現にもお参りした。古い木造の家が軒をつらね、軒先の植木鉢から壁板をおおうように草花が生い茂り、ステテコ姿のおじいさんが夕涼みをしていた。「千と千尋の神隠し」に出てくる湯屋のような建物もあり、何度も足をとめてしばし眺めいった。その友人と会うのも十年ぶりくらいで、神社のいくつも続く赤いミニ鳥居を一緒にくぐっているうちに、何だか時間と空間のエアポケットにでもはまったような、めまいにも似た感覚に襲われた。
 そのあと友人の行きつけの定食屋で食事したのだが、今こんな本を読んでいるんだ、とバッグから取りだしたのが本書。友人はしばらくページをめくっていたが、やがて目ざとく、サルマン・ラシュディの評言が裏表紙に載っているのを発見。ぼくは友人に指摘されるまで気がつかなかった。'A novel of exceptional, astonishing strangeness' なるほど、うまい言い方ですね。しかも、それをラシュディが言っているだけに説得力がある。
 もしも「時間と空間のエアポケット」を小説で表現するとしたら、ひとつにはラシュディのようなマジック・リアリズムの技法が考えられる。マジック・リアリズムといえばラテンアメリカ文学が本場だが、ぼくは二年前の夏、Carlos Fuentes の "A Change of Skin" を読んで以来、ラテアメ文学から遠ざかっている。そのときの感想の引用しよう。「最終的にはわりと感心したのだが、不満もなくはない。本書で現実と虚構を混淆させる意味が、ぼくには今ひとつ分からなかったからだ。…この現実は果たして、現実と虚構の混淆によってしか描きえない現実なのだろうか」
 で、「これはマジック・リアリズムの根幹にかかわる問題だと思う」と言っておきながら、その問題についてふれる機会がなかなか訪れなかったのだが、この "Solo" を読みおえてやっと、あ、これならマジック・リアリズムも捨てたものではないな、と認識を新たにした次第である。…長くなった。今日はここまで。