ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Isabel Allende の “The House of the Spirits”(3)

 ようやく体調がもどってきた。昔から風邪は長引くほうなのだけど、コロナかコロナでないのか、こんどの風邪もなかなか治らなかった。のどの痛みにはじまり、粘液状の鼻水が止まらず、軽い熱もずっと持続。ぼくは平熱が低いので、ちょっと熱が出ただけですぐにダウンしてしまう。
 おかげで読書もほとんど大休止だったが、寝床のなかではしばらく前から『ライオンのおやつ』を読んでいた。日本文学はもっぱら本屋大賞関連のものを文庫本で、と決めている。たまにハズレがあり、『かがみの孤城』はどうもピンとこなかったけど、この小川糸のものはなかなかいい。『ツバキ文具店』以来、ぼくは彼女のファンだ。
 洋書のほうは、きのうから "Zorba the Greek" に再着手。クレタ島に着いた「私」は石炭の採掘をはじめ、Zorba は現場監督。落盤事故であわや一巻のおしまい、という以外、大きな事件は起きていない。
 65歳の Zorba は現実主義者で、老いてなお男性本能に忠実。宿泊先のホテルの女経営者や、村で見かけた美しい未亡人への関心を正直に公言する。一方、35歳の「私」は仏陀の教えに惹かれる理想家だが、と同時に理想と現実に引き裂かれ、上の未亡人を「悪魔」と見なしつつ妄想をいだき、それを抑えようとする。
 余談だが、ぼくはそのエピソードを読んでいて、妄想の妄の字が「亡」と「女」から成ることに気づき妙に納得。でも、もし仮に女性も妄想に駆られることがあるとしたら、そのときは「亡」と「男」になるのかな、そんな漢字はないけれど、などとラチもないことをぼんやり考えたりした。
 閑話休題。表題作は邦訳の紹介文によれば、「精霊たちが飛び交う、大いなる愛と暴力に満ちた神話的世界を描き、マルケスの『百年の孤独』と並び称されるラテンアメリカ文学の傑作」ということだけど、これはホメすぎでしょう。マジックリアリズムの扱いかたひとつとっても、豊かなイマジネーションに支えられた Marquez より明らかに見劣りがする。もっぱら超能力者だけが精霊たちとふれあう、というのは「理屈のあるマジックリアリズム」としか思えない。
 それより本書の「根底にあるのは意外に通俗的なメロドラマ」だろう。ヒーローの貧乏青年 Esteban がまず絶世の美女 Rosa を見そめて婚約し、Rosa の死後、こんどは彼女の妹 Clara と結婚する。Esteban はやがて大農園主、上院議員へと成り上がって権勢をふるい、Clara とのあいだに生まれた娘 Blanca、そのまた娘の Alba の恋愛にも口を出す。そんな Esteban にヒロインの Clara は愛想を尽かし、二度と口をきかなくなる。
 この大筋だけでもじゅうぶん「通俗的なメロドラマ」であり、これだけなら佳篇どまり。それが秀作、「渾身の力作」となりえたのは、私的な恋愛が「三世代にわたるファミリー・サーガとして語られることでスケールアップ。そのうえさらに、社会主義政権の誕生からクーデター発生、軍事独裁政治への移行という現代史の流れに組みこまれた結果、壮大な歴史ロマンスへと発展している」からだ。そしてまた、それが「男性優位の社会にあって女性がしだいに発言権を獲得する近代化の流れを反映したものでもあ」るからだ。大きいことはいいことだ、というわけではないけれど、男と女のラヴロマンスだけで能事足れり、というわけでないことも事実だろう。
 マジックリアリズムの話題にもどると、本書の場合、「精霊(クラーラ)の存在意義は、家族の絆をふかめ、一家の物語を雄弁に語らせるところにある」。ネタばらしになるので具体的には書けないが、少なくともラテンアメリカ文学におけるマジックリアリズムは、現代人に「ご先祖さま」とのつながりを意識させるところにルーツのひとつがあるのでは、という気がしたのだけど、どうでしょうか。
 いいかえれば、マジックリアリズムは家族愛の表明ということだけど、結末からはあとひとつ、祖国愛を読みとることもできる。Isabel Allende の父のいとこがチリの大統領サルバドール・アジェンデで、ピノチェトによる軍事クーデター発生でサルバドールは自殺、Isabel もベネズエラに亡命という実際に起きた事件を知ると、「復讐の連鎖を断ち切れ」という本書のメッセージが当時の独裁政権にむけられたものであったことは明白だと思う。

(下は、この記事を書きながら聴いていたCD)

ドビュッシー:前奏曲集